長沢松平家 古字名「古城」は分断された松平長沢城

先日、アベノマスクの引き取り手が数多ということで当のご本人が自画自賛、ご満悦の弁を吹聴、それを聞かされていた同座の衆も「そりゃよかったスバラシイ・・・」ばかりに感嘆のヨイショの声をあげていましたが一体どこまで御目出度い御仁なのかと苦笑いしたものでした。

 

私はあのお粗末マスクをなかったことにしてやる・・・というキッシーの配慮かと思っていましたがその御仁はお調子にのって「もっと早くやってもらえればよかった・・・」などとも吐き散らしていたことも思い出されます。

 

拙ブログでは昨年師走の中旬にその件と配送料についての疑問を記していましたが今回その試算が出ましたね。

それによると配送料は10億円の出費となるそうです。

一番喜んでいる御仁とその取り巻き衆がそれ支払ってくれるのならまったくOK。

その尻ぬぐいをまたも国民にやらせようというのなら、ちょっと違う・・・。カンベンしてもらいたいね。

ちなみに廃棄すれば6000万円の出費で収まるとのこと。

6000万円でも庶民にとっては天文学的数字の無駄。

「政治のおままごと」は正気の沙汰じゃない。

いい加減にしていただきたいものです。

せめて少々でいいので、贅沢は言いません、まともな人間、頼みますよ。忖度とかナイやつで。

 

さて、昨日は「古城」の字について記しましたが、こちら周辺には「古城」対面の山系の岩略寺城ほか古くからの城塞があって

その「古城」の「古」とあっても一体どのように古いのがピンと来ませんね。

現在の人からすればすべてが「古い」ことはいうまでもないことですから。

 

しかしこちらの長沢について、不詳とはいえ、とりあえず大体の見当はつきますね。

城郭大系の記述今一度記すと

「一説に細川成之が三河守護の時代、文安(1444~1449)の頃に関口経国の子孫、関口刑部少輔光興によって築かれ弟の長沢次郎直幸がこれを守っていたが、長禄二年(1458)西三河の松平信光によって城主長沢氏は攻略され、信光は子の親則にこの城を与え、以後親則は長沢松平氏の祖となったといわれる。

しかしながら、信光の攻めた長沢の城が長沢山城なのか、平地にあった長沢古城を指すのか、それを考証する史料は乏しい。

 

長沢の地はその後も松平対今川の争点となっていることからも両氏のいずれかによってこの城は維持されていたとみるべきであろう。」

 

そうです岩略寺城こそが本来の「古城」であってその後に松平が長沢に入っていますので現在の長沢小学校から国道一号線を超えて東名高速道路辺りまでの広大かつなだらかな丘陵地にいわゆる長沢城、そして江戸期には家光が休憩したといわれるような「御殿」と呼ばれるような建造物があったと考えます(単純思考)。

要は再三記していますが国道一号線の分断によってたまたま城塞が分かれて複数になったように感じてしまうというもの。

 

まぁ今一つ、関口氏の城が近くにありますが、この長沢小学校全てとその上部に長沢城と呼ばれる城塞が戦国期から江戸時代を通して展開していたと考えるのがスジ。関口氏の長沢平坦部の館(根古屋)+有事の山城、岩略寺城もあつたでしょうが。

 

現在は旧東海道に沿ってあった家々は「過疎ってる」そうですが最近は東名高速入口近くと国道、その山側(名鉄沿い)は利便性というところもあって結構にきれいな住宅が建ち並び人口の下降を食い止めているよう。

 

長沢と言えばその「長沢松平家」がありますね。

詳細はウィキ参照ですがこの地を代表する「名」です。

その名のり「松平」家がいまだガチで存在しているわけですがその屋敷の位置がまさに小学校から見て国道一号線の向こうの山側。

位置関係からして、家光が休んだといわれる御殿はその国道一号線の開通で破壊されているのかと想像したところです。

長沢松平家の広大な敷地は明治以降、小学校と道路に変わってしまったのでしょう。

 

①は国道一号線長沢交差点より一つ岡崎寄りの「関屋」交差点。「関口」発祥の「関」が匂います。

②は昨日も記した山側、国道1号を超えた場所の入口にある長沢城の標ですが説明不足失礼。

これは井戸跡と言われているようです。

③は長沢小学校側の国道一号線(フェンスの下)の縁、観音堂の林の図。その向こう側が岩略寺城。

④は松平さん宅(あいにく不在)を訪問した際に見た石祠の隣の石碑「城守護 白山社」とありました。