この厳冬乾期の頃はお日さまが西の端にかかる頃といえばやたらと眩しい。
西の空に雲が無いということで「明日もいい天気」を予測させますが、自家用車を利用しての東方面からの帰路などストレートに顔面に強烈なスポットライトを浴びるようでハッキリ言って危なくてしょうがない・・・の一言。
その眩惑によってリスクの存在を見落として事故になるなどよく聞く話ですからね。
とはいえ清々しいオレンジ色には西方極楽浄土をイメージするのは五木寛之「親鸞」の「親を思えば夕陽を拝め~」の通りで特に浄土教の無常を想う日没は一種独特な時間帯でもありました。
昨日は夕刻に奥方と榛原方面から帰宅する際、その強烈な光線を浴びたのでしたが、山の端にかかる直前の太陽を指して「人生あのくらいまで・・・きたかな?」と問いかけてみると「私はまだあそこいら」と天を指していました。
それはそれで「私がお先に・・・」は至極ありがたいことです。
勝手な思いですがその逆の状況は避けていただきたいというのが切なる願い。まぁ泣き言になるでしょうが。
どちらにしろ命のことは私どもの知るところではありませんが、私がここのところ夕陽を見る際の思いというものは以前より格段に、違ってきています。
より美しく、かつよりその向こう側について感じるようになっています。
さて、昨日の平城御殿の長沢城。
国道一号線によっって中央部は破壊され、その全体図を想うことはできませんが、長沢小学校から見て山城(岩略寺城)の反対側の丘陵も長沢の城域ですね。
というとなると東海道を挟み込むようにして城郭が形成されていること。
領地内を街道が走り、その街道の迂回は相当の遠回りとなるということで関所が発達したかと。その「関」の字を名のる「関口」にあらためて納得させられるというものです。
画像は国道一号線の向こう側の長沢城の標。
周辺はなだらかな段丘となっていて、城址といわれればそれを感じる地形になっています。
こちらの縄張りを破壊したのはその国道だけでなく、名鉄の線路に東名高速そして住宅街区。人々の営みでした。
この地より東名高速を超えたあたりの古字名が「古城」です。よってこの辺りの城塞化した地形を思うと軍勢の通行には相当の緊張を伴う場所だったのでは。
さすが三河東西を分かつ、要害の地であったことがわかります。
コメントをお書きください