平地にあった長沢古城 家光休憩の御殿も

一転風の冷たい一日でした。

陽射しがありましたので車での移動はポカポカ気分ですが、「外仕事でも」という気には到底なれず。

風が冷たいこの時期といえば頭の中にこびりついている「ケアすべきこと」といえば火の始末と入浴。

 

昨日のニュースでしたが、小田原の飯泉の住宅街に住まう独り暮らしのお婆さんの家から出火して全焼、隣接している家屋も複数延焼してしまったと。

軽傷で済んだとはいえ、住まいの喪失と近隣家屋への損害の発生についてその家族の方は気が重いことだと思います。

高齢者はとかくその火の始末はじめ身の回りの色々について覚束なくなる年頃ではありますが、家族(子供ら)が思う後悔といえば「もう少しでもケアする気持ちがあったならば・・・」でしょうね。

 

子供たちが遠方に住まい、年老いた親が独居しているなどの家は数多ありますからね。

後悔する前に対応する・・・などは重々承知はしているもののそれがなかなかできない。

なぜならば人とは年齢に関係なくミスをやらかすものなのですから。年齢を加えることでその頻度がただ増えていくというだけです。子供も親も同時進行。

 

私も自身「まだまだイケる」とは思っていても、「一体全体私は何をやっているんだ」といったミスが確実に増えています。

こちらに記していればキリがないことですが、最近このうえなく「やらかした」と思ったことは・・・

①出棺勤行で一旦席を外した際、ピンマイクの電源をオフにしな

いまま控室に用意されていたお茶を啜ったこと。

大抵は担当者が本機の電源をオフにするのですが、朝は手順が統一されていなかったのか、その手の配慮はなかったのでした。

その件、かつて父のその有様を見ていて「やれやれ」と感じていた件で常々「私は気を付けるぞ」と念頭に入れていたことでしたが完全に失念していました。

 

②葬儀終了後、施主はじめ親族、お世話になった司会、担当者に挨拶して駐車場まで出たとき、足元を見ると館内用のスリッパだった件。これまで3度ほどそれをやらかしていますが案外恥ずかしいことです。

ここまでくるとただのミスといったレベルを超えているかも。

 

そしてこの時期注意したいのが風呂場における血圧変動のリスク。その件含めて高齢者の一人暮らしほど怖いものはありません。いつまでも「大丈夫」などいられないのですね。

それを一言で「無常」といいました。仏教の基本。

 

夜は「徳川家斉」を扱った番組(BS TBS)を視聴しておしまい。

先日は本願寺にスポットを当てた番組は珍しいと記しましたが徳川家でも「家斉」特集は初めてでは・・・

 

さて、昨日の岩略寺城の麓。

城郭大系の記述「信光の攻めた長沢の城が長沢山城なのか、平地にあった長沢古城を指すのか、それを考証する史料は乏しい」

の通り、その城山の麓、東海道に沿って長沢城と呼ばれる城がありました。

城山の城を平山城か山城かについて記しましたが麓に館形式の城(根古屋含む)があるとすれば、当初は単立の城郭としての山城の感覚でいいかも知れませんが、その標高の「あまり高くない」ところからして「有事の際の籠城・・・」の考え方があるとすれば、常々の平地、緊急時の籠城のシステムを考慮すると「平山城」でもいいかも知れませんね。

もっとも山城と平山城のくくりにその手の考え方はないでしょうが。

 

その平城の長沢古城の位置は現在の長沢小学校(場所はこちら)そして今は国道一号によって分断されてしまっていますが、その向こう側の段丘ということになります。

ここでも思うことは、結局が道路開発によって城郭遺構が破壊されているという事実ですが、きっとイケイケドンドンの時代でしたから、事前調査などもなく、何か出てきたとしても完全無視だったのでしょうね。

私も岡崎との往来でよく利用する道ですので今更文句は言えませんがね。

 

画像は長沢小学校周辺の図。

今の音羽川はとてもおとなしく小さく感じますが有史以来この辺りの段丘を形成するほどに暴れたのでは・・・

平城の古長沢城は東海道の北側の緩やかな段丘に斜面に築かれた広大な縄張りを想像しますが、江戸初期には家光が休憩したといわれる御殿があったといいます。

 

⑥は近くの一里塚跡の標ですが奥に長沢小学校が見えます。

⑧は直前の音羽川にかかる御殿橋。