長沢の地の特異な光景 登屋ヶ根城址東端から

昨日はいつもの薄っぺらい恰好で地代の墓地に上がりました。冷たい風の駿河湾の向こうにうっすらと富士山が浮かび上がってなかなかの景色。

寒いのは仕方ありませんが、陽の下を求めてマスクの下で深呼吸をすれば冬場ならではの澄んだ空気を実感しました。

 

さらに呼吸という「当たり前」ともいえる体の仕組みの不思議を感じます。

その少し前に拝読した蓮如さんの御文「五-16白骨」の件、

「すでに無常の風きたりぬれば すなはち ふたつのまなこ たちまちに閉ぢ ひとつの息 ながくたえぬれば」が思い浮かんでくるわけですね。

当たり前だと「今更バカじゃねえか」と笑われそうですが、空気を吸って吐いての繰り返しについて、無意識中の無意識、親や学校の先生に教わったことではない、不思議中の不思議です。

 

御文はいずれは迎える「私の息のとまるとき」・・・「一大事」について淡々と記されているものですが人、いや動植物の最期といえばそ100%その症状に至ります。

一言で肺機能と心機能がリンクしていて、最近人の死を脳死と分けて示唆する言葉「心肺停止」という語がよく使用されるようになりました。

コロナのウィルスの変異というものはその不思議の中の不思議の上を行っているのか現状大流行のオミクロンの方かと。

そのヒトに対する肺への攻撃を「気管支で留めておこう」といったウィルスなりの戦略があるような気がしてなりません。

 

ウィルスとして未来に渡って生き残るための戦略として、その宿主たる人体について「早々に殺してはならない」の転換があったのかというもの。

と考えると・・・このウィルスの緻密な計略はアホな政治家殿や専門家様の後手後手の対応、そして社会、人類の遥か上の上を行っているような気がして。

 

まぁウィルスは別にして、人は年齢とともに肺機能が低下することは知られているところ。以前も記しましたが土蔵の整理の際、その堆積しまくった埃やら体に悪そうな色々な悪い空気を夫婦で吸い込んで通院するハメになりましたが、あの時息子とその友達は私たち以上に土蔵内に滞留して作業を行っていましたが、「何ともない」とその結果は顕著でした。

その件は免疫低下と肺機能の老化という結論に至りますが、それとは別に純然たる肺機能を維持するために自然に呼吸するための筋力を落とさないことが肝要ですね。

ラジオ体操の継続は案外効果があるよう。下半身も上半身も適宜動かしましょう。

 

さて、先日は長沢観音堂城のところでこの地長沢特異的ともいえる、屋敷・農地ともに土地境界に石垣を積む習慣についてしるしました。その仕切った区画がなにがしかの遺構の如くに見えてしまうことでね。

獣の侵入を防ぐ施設ともいわれますが、私はこの地には伝統的にその敷地境界に石垣を積むという習慣が残っているのではと思うところです。

当然石垣といえば城柵としての「塁」「石塁」としての感覚を思い起こしますが獣はもちろん敵味方たがわず外からの人の侵入を防ぐものですね。

 

戦国期の長沢は今川・織田・徳川そして時に武田勢への侵入を警戒しなければならない、気の休まらない土地でした。そういった歴史の中で「石積みの塁」が平和時にも当たり前のようにその権利の境界に築かれるようになったのでは。

そういえば宮路の山を音羽川に沿って歩いているときにその石垣の素材となりうる石が豊富にあることがわかりました。

 

①画像奥は国道1号。道路左手前の敷地に石積みが見えます。

②民家敷地を囲む石積み。

③はやはり関口氏の登屋ヶ根城址の東側からの図。

④はあたかも岩村城(またはこちら)のミニチュア版。

農地にもこの手の囲いが各所で見られます。後世に積まれたものでしょうか。