猿啄城も勝山城に変更 金山城から木曽川沿いに

月曜日は週初の特殊要因もあって案外と少なくなったような。東京は200人を割れて180人でした。

どうせ明日から「200、300当たり前」に戻るのでしょうね。

 

第三波で新コロ大繁盛の中IOCの会長が来日したことは驚きにも感じました。

予定としてのアナウンスはありましたが「ホントに来た・・・」です。

なんでそんなにムリするの?何も今でなくても・・・というところですが、まさかの話、ご接待の宴会でクラスターが発生したら相当イメージが悪いのでは・・・とこちらまで心配してしまいます。

 

人々の「ウェイト」(共感の)が延期・中止の方向に傾きつつある中、「ヤル」という方向に引き戻したいというのがその意図の様ですが醒めちゃっている人もかなり多いのでは・・・世論調査では「ムリ」の意見がまだまだ多いですからね。

 

ノー天気に「観客を入れて・・できれば満員のスタンド・・・」など夢幻の如く勝手なご希望を連ねていましたが、その根拠はワクチンの完成があるということだといいます。

本当にそれができるとしたらそれも納得できますが、疑わしいことこのうえなし。昨日もアメリカから「効果があった」という報がありましたが・・・

副反応の期間を確認せずにしての投与で見切り発車するリスクの方も考えていただきたいですね。

私はそれを打ちたいと焦っているワケではありませんので。

 

さて、昨日の「勝山」。

縁起かつぎの名称変更の件、また一つ古い画像の中から発見しました。

10年ほど前に「奥の墓道」氏と岐阜をブラついた際のものでした。

金山城から木曽川伝いに犬山城経由で金華山(岐阜城)に向かった時のもの。

 

犬山城の手前、木曽川の北岸に位置する地に猿啄城(さるばみ)なる山城があります。

犬山は尾張ですので木曽川を国境にしかつ、中山道から関市や美濃市方向に通じる街道の分岐点で要衝の地となります。

この辺りの木曽川はかの有名な日本ラインの急流域、山が木曽川の谷からせり上がるような場所です。

 

ここで城郭大系から。

「この地を勝山というのは永禄八年1565織田信長が中美濃攻略の為に猿啄城を落としてのち改められたことによる。

信長の美濃攻略は、天文二十二年1553の信長・斎藤道三の尾張富田の聖徳寺会見や鷺山城の道三と稲葉山城の竜興が長良川を挟んで争った長良川の合戦の前に記された道三の弘治二年1556の遺書にもみられる書状で明らかである。桶狭間合戦の翌年永禄四年1561より信長は西美濃からの攻略を謀ったがそのたびに竜興に防がれた。よって信長は居城を清州から小牧山に移し永禄七年犬山城を降して丹羽長秀を置き、東美濃からの美濃攻略を謀った。」

 

創建は享禄三年1530、田原左衛門。土岐氏の流れですね。

金山城の画像ばかりで恐縮です①~⑩。これらもアップしていなかったと思いますが・・・何しろ当時はブログに使用することなどは考えてもいませんでしたので撮影も少なくあったとしても墓道氏と交互のスナップ写真ばかり。

看板横に私がニッコリ笑って立っていました。10年以上前の真っ黒でパワフルの感満点、溌剌としてあたかもリポビタンDの宣伝に出られそうな姿を見てひどく懐かしく思いました。

勿論恥ずかしいことですのでカットしました。

10年ひと昔、みんな変わってしまいました。

それにしてもまた、いつまでこんなことをやっているんだろう・・・とも。しかしまったくもって仕合せなこと「報恩謝徳」の気持ちです。

 

最後の2つが猿啄城の看板と日本ラインの様子(場所はこちら)。私どもはつい船に向かって手を振っていましたが、なぜか船の人たちはそれに応えて手を振り返してくるのでした。

なぜだろう・・・そういう状況は街を歩いていて絶対にありませんからね。

私は知り合いが遠くに見つけられると手を振ることはありますが。

 

信長は「猿啄城?変てこな名前だし縁起のイイ勝山城にしよう」

と変更したのでしょう。

これは昨日の姉川の家康の陣、岡山→勝山と同じ理由でした。

「勝」が大好きなのです。