イスラエルの歴史家ユヴァル・ノア・ハラリ氏はメディテーション推奨実践派。
昨日のEテレの番組の終わりに両手を合わせて、あたかも合掌しているような挨拶をしていましたが、本当のところはどうなのでしょうね。
「瞑想」といっても宗教を離れて単純な自己コントロールや新発想や健康健全に導こうという意図もありますので・・・そもそも彼は無信心に近い・・・ようなことも言っていましたからね。
イスラエル人といえば単純にガチなキリスト教系をイメージしていましたからその辺りもちょっとばかり驚いたものです。
ちなみに拙寺では「阿弥陀経」という経典の拝読がありますが、浄土三部経の中では最も短いもののその時間は聞いている方も退屈だろうと勝手に解釈して、最近ではその「時間」でのメディテーションを推奨するアナウンスを提示しています。
「感謝と報恩の念仏メディテーション」
メディテーション(瞑想)は姿勢を正しくし鼻呼吸(上唇を意識します)。身近な些細な事物(どんなものでも可)その原因含めて「わたし」への関わり、報恩を深く感じること・・・
そのハラリ氏は有史以来の人類の狩猟社会から定住しての収穫、いわゆる農業革命が「支配」の発想の原点であると。「ヒエラルキー」の誕生ですね。
勿論私もそれに賛成します。
定住して耕作、稲作等の収穫量が財物の蓄積の差となり、その基となる土地の確保が各コミュニティ族長の課題となります。
そこに他部族、他民族、他宗教の異人、いわゆる「自分たちと違う」者たちとの闘争が始まり、制圧するかされるかの状況が生まれます。
大規模な開墾や収穫、そして闘争には人の数が必要になりますので被支配階層は奴隷となって頭数となるわけです。
氏はそこに「支配」というものが始まったと断ずるのでした。
昨日の法要でのお話は先日記した、どなたでも知っている「勝って甲の緒を締めよ」の語を引き合いに出して「勝」の語について持論を展開。それは以前も拙ブログでも記していました。
この語は経典にも頻出の語ですからね。勝敗の件敢えて言えば自分の「愚」に勝つということでしょうか。
この場合「すぐれた、すばらしい」のイメージが主ですが、その「勝って甲~」などは日本特有の「相手」がまずいてその勝敗を決し勝利すること=相手を打ち負かすことを言っていますね。
まあイチかバチかの戦いでの敗者ともなれば家族もろとも死するか落ちぶれて、もしかすれば奴隷としての苦しみが待っているということですからその闘争に「勝る」ことほど目出度いことはなかったはずです。勝てば色々な副産物をゲットできますのでまさに人生雲泥の差となるでしょう。
さて、昨晩の大河ドラマはさらっと流して「姉川の戦い」が。
まぁここで時間をかけられないはずですので致し方ないところ。また劇中会話の中で「親鸞さまの教え・・・本願寺」の語が出てきましたがその件、なるほど・・・というわけには行きませんでした。「戦って死んだとしても極楽浄土に行ける」風の抗戦集団である本願寺門徒の解説には少々の違和感がありました。
それではハラリ氏の言う宗教の「フィクション性」というもの
への信心ということになりかねませんからね。
その「フィクション」の創作・・・宗教・・・という考えには凄い発想であることは否定しませんが、100歩譲ってそのストーリーの中に人間(わたし)という実態を置いて「気づき」を得ることを目的にしていますのでね。
まぁ顕如さんの檄に応じて真宗の灯を消せないという思いが各地御門徒たちが自らの判断で自身死地に向かわせたことは間違いありませんが・・・
結論としては劇中「比叡山の坊主の背中には仏を背負っている」ということを信長自身が仏を背中に括り付けて「自分だってそうだ」と主張しているシーンがありましたが、坊さんの主眼というか当流でいえば我が心の愚かしさ(朝夕 まどいぬる いたずらもの)に対峙して勝り優れることに意義があることなのですがね・・・。
まぁそれはキレイごとといえばキレイごとかも知れません。
ただ単に抹殺されることへの必死の抵抗があったのでした。
己の「愚」を承知していても我らは「本願ぼこり」突出の身。
またハラリ氏は「愚を甘く見るな!!」とも言っていました。
愚の暴走を許してきた様が今の世界の状況だとも。
そして大河ドラマ番組最後の恒例の名所の紹介が姉川周辺でした。
このブログからはずっと遠ざかっていた地。
久しぶりにその辺りを記したブログを開いてみました。
すると地名を紹介する「場所はここ」の地図が大分抹消されていました。
以前からそれに気づいていて、適宜対応して新しい地図に各落としこんでいましたが、今度はゴッソリ消えていて大変そう。
調べればカンタンに判明するでしょうし当分は放置しています。
地図が消えるのはアクセスが無かったことからでしょうね。
特に昔のブログの地図がその傾向です。
番組最後で姉川の家康の陣といわれる単丘、「岡山」が紹介されていました。
こちらはかなり以前に行った場所でしたがまだブログでは記していませんでしたので画像を引っ張り出してきました。
地元では「岡山」と呼ばれていた丘を家康が本陣を置いて勝ち戦となったため「勝山」と縁起のいい名に変えたと言われています(場所はこちら)。
こちらは比較的新しい地図に差し込みました。
この「勝」の字は武将は大好きのよう。
姉川を一望にできる場所になりますが対岸の地名「血原」の名はその状況をよく残します(以前のブログ)。
最近はキラキラネーム流行り、島田(金谷)の新駅の名などのそれ、変更がありましたね。
最近の地名のキラキラ化はアホの如し。気味悪く呆気にとられています。
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