三田村さんといえば 姉川戦 台詞も考察

姉川のこと、久し振りに昨日触れましたのでつづけて。

浅井長政の懐刀ともいえる智将遠藤直経が、敗走寸前の浅井軍の起死回生を図り、かつて接待した経験から顔を見知っている信長を差し違えんがため、織田軍陣中深くに単騎で乗り込んだという話は何ともドラマチックです。

 

戦国時代の戦、敵味方乱戦状態の中、その判別方法といえばまずは旗差物(姉川七本槍)。組み合って七転八倒すればその手の印しの類はあっという間にどこかに失せましょう。

オーソドックスな戦闘を考えるとまず騎馬武者(鎧武者)の相手は騎馬武者(鎧武者)であり、雑兵は相手にしません。雑兵同士の戦闘に徹します。

雑兵は専門の戦闘員ではありませんのでその訓練度も違い、高価そうな出で立ちの鎧をまとう騎馬武者にはまず単独では手出ししませんね。あくまでも自分の主人の戦いの補助員ですので、余計なちょっかいは出しません。

 

ただし乱戦ではそうもいかないでしょうね。そこで混戦状態で我が身の出所判別が不明になっている際は、古来からの「名のり」を大音声で周囲に知らせるというやり方を取っていたのだろうと思います。

 

たとえば遠藤直経であれば

我こそは「須川の住、浅井家家臣遠藤喜右衛門なり」などと呼びかけてから相手の事を少々罵る言葉を吐いて・・・、たとえばよく言う言葉としては「東から西に上る者たち=(都から離れた)田舎者」という観念が平安期よりありました・・・。

東軍武士の野卑を馬鹿にした「坂東武者」という言葉ですね。小田原の役はじめ関ヶ原や大坂の陣ではこぞってその語が使用されたことでしょう。

 

ここではこうでしょうか・・・

「都に上らんとする田舎武者、手前に見合う名だたる侍はござらぬか、それがしがお相手仕る」というようなセリフが上記に続いたことを想像しますが、あの時あの場面での遠藤直経の頭の中は「もうコレしかない!!」だったのでしょう。

 

それだけ敗戦濃厚でもう一歩も引けない状況、寅さんの叩き売りではありませんが、「やけのやんぱち(日焼けのなすび 色は黒くて食いつきたいが わたしゃ入れ歯で歯が立たないよ)」になったということですね。

ちなみに「日焼けのなすび」とは坂東産の日焼けした(黒くなって皮が厚くなった)ナスのことだそう。

 

その彼の「ただひとつ残された道」を思い立ったのが、ふっと目に留まった盟友三田村左衛門の死骸だったわけです。

焦燥感の中、彼の骸に取り付き鎧首を今にも掻き切らんとする相手方雑兵を怒りと悲しみの中、斬り捨てたあと、こう考えたのでしょう。

「三田村殿の無念を晴らさんが為、御免」と一礼し、一気に首を兜ごと切り離したあと、「これより憎き信長に一太刀浴びせん」とばかりに信長本陣に向かったのでした。

佐和山饗応の際、信長の繕の料理に毒を仕込む事を進言して却下された経緯もあり、信長とは顔見知り。

浅井方の武将であることがバレないようにその旗差は勿論家紋の入った具足・兜は外して、敵の骸から取り去った鎧に付け替えて、顔には三田村の血のりをべったりと塗りつけてから敵方本陣めがけて歩を進めたのでした。こっそり藪の中で着替えたか?

それでも竹中久作(重矩)に見破られたのは、遠藤のテンションが少々高すぎ、目立ち過ぎたために怪しまれたのだと思います。

本当にツキが無かったですね。

 

徳川軍の戦闘相手は朝倉景健でした。

朝倉景健はこの戦いでは敗走したのちに信長に許しを得て一応は所領安堵されています。その後越前一向衆に圧され本願寺顕如に遣わされた下間頼照配下となって、信長に反旗を翻しました。そして再び信長優勢になったとき、信長に降伏して腹を切らされています。

 

松永にしろ荒木にしろ一旦信長になびいて軍門に降ったところで、「ある時突然謀反」。そのパターンは意外に多かったわけで、その信長という人間の持つ独特の「雰囲気」というものがそうさせているのかも知れません。

そしてそれは最後に「明智」の裏切りを呼び込んだのです。

 

さて、朝倉方のこの「姉川の戦い」の正式名称は「三田村の戦い」でした。この朝倉景健が三田村氏の居城、三田村城を本陣にしていたからですね。浅井方通称の「野村合戦」の野村とはそう遠くない場所です(場所はここ)。

姉川の作った肥沃な土地と豊富な水量を背景に広がった田園風景が今も広がりますが、大昔はその「三田」の語の元を「御田」(みた)という資料もあるそうです。

その集落の中心にあったのが三田村城ですね。現在の伝正寺さんです。

画像は私が訪問した2012年の図で点数は少ないのですが、四方を土塁で固めた環濠砦のイメージがします。特に航空図③を見るとそこのところがよくわかります。

 

三田村左衛門の左衛門は「左衛門尉」の受領名ですので本当のところは特定できませんが三田村国定という人だと言われています。その人の母親は今井定清の娘ですが今井定清という人はある夜襲の混戦で友軍兵の槍を背後から受けるという不慮で落命しています。

そういうところからも敵味方の区別は結構しずらかったことがうかがえますね。

 

三田村左衛門の討死場所は浅井方が陣取ったのは野村ですので、そちらでの事件だったことでしょう。

「三田村」姓は周囲でそう耳にしませんが、やはりその名をきけば一番に思い当たるのが「必殺シリーズ」のあの三田村邦彦ですね。

この姓を名のる家ももはや地元には残っていないようで、歴史の中ちりじりの離散の体が想像できますが、その人のご先祖の出自はこちらだと聞きます。

朝倉方の真柄十郎左衛門直隆、浅井方の遠藤直経とともに姉川敗者側のヒーローでした。

 

画像①が三田村左衛門②伝正寺境内より。

⑤が三田村一族の墓と言われている祠です。

ざっと見渡しても真宗のお寺(特に大谷派)が目立つ地です。

 

 

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コメント: 4
  • #1

    三田村正一 (木曜日, 12 1月 2017 20:34)

    ご先祖さまなのだろうか?知っている限りでは先祖は岐阜県まで追えるのだが。。

  • #2

    今井一光 (木曜日, 12 1月 2017 22:48)

    ありがとうございます。
    「三田村」姓はそうはありませんからね。
    江州と美濃はパイプがありましたので一族が美濃に至ったことは十分に考えられますね。
    どちらかでも記していますが、小田原美濃屋のご先祖は浅井郎党で美濃屋を名のっています。浅井滅亡の際、美濃へ住処を変えたといわれそちらから相州に来たと。

  • #3

    三田村勝 (水曜日, 20 2月 2019 03:01)

    一族は戦乱で散り散りに成りながら各々に生き抜いたようです 60年前に亡父に聞いた話ですが、京極氏の重臣の縁で饗庭氏を頼り、滋賀高島に安住の地を見つけ 家宝の刀も有った様です 遠藤家赤尾家浅見家他の三田村家等と交流が合った様ですが 今は解りません

  • #4

    今井一光 (水曜日, 20 2月 2019 08:31)

    ありがとうございます。
    高島といえば琵琶湖の対岸ですから一族縁者を舟で逃がしたことが想像できますね。
    当時「三田村」の名の表明は信長方の一族成敗の危惧も伴いますが、名家としての存続を惜しむ者も出て匿われたのでしょう。
    当地勝間田家の一族は敗戦離散後一時的に名を変えるなどして過ごしほとぼりの冷めた頃に徐々に勝間田に復姓していったとも聞きます。
    そういえば高島の饗庭・・・相場氏も名家ですね。