冥途の旅の一里塚 小堤山遠望 中日新聞に相良海老

東京女子医大看護師さんたちの集団離職も・・・というニュースを聞いてコロナ最前線にいる人たちの壮絶を感じました。

病院経営者側の「どうぞおやめください」風の物言いには違和感がありましたが、これをどう見るかといえば、そもそも看護師たちの病院への不信感というものは病院経営が立ち行かず賞与や給金を減額と決定通知したことがそのきっかけとなりますが、元はと言えば「新コロ」患者の治療対応へ病院をあげて傾注したためですね。

聞くところによれば全国の大学病院の現状も同じようなもので「10億円程度・・・」の赤字は普通にあるようです。

 

ということでその病院側の「おやめいただいて結構」の談はどういうことかといえば「コロナ受入れ これまで通りにはできませんよ」の国へのメッセージにも取れるのです。

東京都はこれまで契約していた陽性患者を隔離するためのホテルを殆ど解約していたといい今後「病床数を増やす」の大風呂敷は広げられていますが「現場」としては受け入れれば受け入れるほど経営が苦しくなって、看護師たちは超過勤務手当も危険手当もなく馬車馬のように(看護師の談では「捨て駒」と)働かされるということが今後の連想の中、「Go To」によってそれを進める側として「ある程度の感染者が増えることは想定内」などいうふざけたノー天気を言い放つなどその患者を受け入れる側としてはどうにもならない怒りに襲われたことは容易く想像できます。

 

 

その大学病院はこれまでの「新コロ」対応の東京の「基幹病院」だともいいますので、この病院側の声が聞こえない、現場の悲痛を聞く事が出来ない国の「Go To」態勢はもはや常軌を逸しているとしか言いようがないですね。

昨日も東京165・神奈川41・千葉29・埼玉38・大阪43の全国で452人の新規感染者数を叩き出しています。

 

「専門家の意見」と政治屋は責任逃れの常套句で使いますが、最近のその専門家というのは経済界の人専門。

病理学、ウィルス学等フェアな立場の学者さんの意見を聞かなくてはダメでしょう。都合のいい耳障りの言い話ばかり聞くのではね・・・

 

私の場合は生きた人間との接触はそうはない「墓場」専(ブログ)で怖いもの知らずの躰であちこちふらふらしていますが、一般的に観光レジャーといえば人混みがつきものです。

実は私の言う「墓場」とはこの現実の人間社会そのものをもオーバーラップさせているものですがこの期に及んで提示された「割引」という餌に安易に乗るという愚を冒せばそれこそ「貴方と家族のためのお楽しみの「トラブル」どころか『Go To 墓場 キャンペーン』(墓場へGo!!)になるかも知れません(少々不謹慎な言回しを失礼)。

 

後遺症発現率8割ともいわれ完治もなかか難しいといわれる疫癘コロナ、もし亡くなったとしても六親眷属も坊さんも駆けつけることができません。

 

今一つ憎まれ口を記しますが「私は大丈夫」「私は平気」の輩、特に若い人の中で多いようですが、そういう時、まずは痛い目にあうということはこの世の中の必然なのです。

そこだけは本当に不思議な方程式が成立しますからね。

よって「慎め」という仏の仰せに頭を搔き搔きその声を聞いて人は反省して歩を止め改めようとしたのが先達でした。

 

まだ時間があります。

是非にその国民を墓場に誘導しようとするその不細工な思いつきの扇動は今は諦めていただきたいものです。

また、今の皆々さまの旅立ちの決断が「冥途の旅の一里塚」になりませんよう。

 

画像①は布施商店が発行した絵葉書。

②が昨日の小堤山からの図。

①は③と同時期の撮られたものでしょうが③の本堂後方に「鷹がとまった」と父が言っていた枯れた松が見えます。

私が幼き頃にはまだありました。

 

同じく本堂手前の「柏槇」が今とはかなり小振りですし左側本堂の南側の榎の大木が見えません。

おそらく「100年前」(明治~大正)の画像でしようが①画像の拙寺本堂は画質が悪く、殆どシルエットの様。

これは上述の松の木のせいかと思われます。

 

小堤山を上がった辺りには学問所風の瓦葺きの建物があってその向こうは今の波津とは全く違う景色、殆ど田圃が広がる世界。

また、海岸線の松の数は今より相当多いですね。その松林の管理

をしていたのも拙寺だったと聞きます(御林御用←こちらにも古い相良の画像があります)。

この画像で今もその景色を構成しているものといえば拙寺本堂以外はありませんね。

拙寺は田圃の淵にあったため外周土塁を盛って周囲より一段高くしていると思われます。

 

この「高さ」が拙寺境内の水が周囲に流れ出す原因になってるとはいえ、少々の安心を得られるのでした。

画像の通り水田を埋め立てた場所は地盤がゆるいということもありますが低地であって出水には脆弱なのかも知れません。

まぁかつてこの辺りでの増水に関しては聞いた事がありませんが。

大きな災害はまず「今までなかった」ものばかりですから「大丈夫」などありません。

 

最後の画像が当地、史蹟研究会会長の小澤氏。

昨日の中日新聞に出ましたので画像をキャプチャー、拝借しました。内容は勿論「相良海老」出版の件です。

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コメント: 2
  • #1

    野村庄右衞門幸正 (金曜日, 17 7月 2020 19:32)

    こういった古い写真を見ると、1枚くらい呉服屋時代の我が家なり本家なりの家の写真があっても良さそうな気がします。
    本家は火事があり…当家は潰れて無くなったので仕方ないのでしょうかね。昭和の終わりか平成初頭だったでしょうか呉服屋時代に従業員だった方の娘さん(当時でかなり高齢の方)から曽祖父の子どもの頃の写真館撮影の写真。要は呉服屋時代の物ですね。それが見つかったという事で送っていただいたことがありました。なので、まだどこかに眠っているのか?と考えるのですが…
    厳しいですね。。。

  • #2

    今井一光 (金曜日, 17 7月 2020 20:04)

    ありがとうございます。
    この広い世の中、絶対に残っているはずなのですがそれに巡り合えないだけなので
    しょうね。
    この小堤山からの写真もこのほど初めて出会えたものです。
    本通りには古くからお金持ちの家があって古い写真はたくさんあるはず。
    ただ写真は無用のものとして処分されてしまいがちなのですね。
    相良一帯で本通り古写真の指名手配でも企画すればきっと何か出てくるのでしょうが。