岩船墓地の埋め墓と受取り地蔵 詣り墓は自宅に

東京都の最高記録更新。昨日1日で感染者は142名。

私事、法要は私1件、横浜の息子は2件。

その開催の場は閉鎖的空間での「集まり」ですがこの期に及んで「できません」などとはこちらから切り出せませんからね。

何事も「できない」と一言で返せない性分ながらさすがにこればっかりはどうしても今一番に怖い。

まぁそれはできないことばかりの中せめて日頃の希望、モットーとしてあるだけですからカラ元気のようなものですから。

 

本堂の空間は天井が高いので少しはマシですが、薄ら寒い風も通る中、障子を2か所開けかつ、お隣りとの距離を置いての着座でした。ただしストーブは点けました。

そして当然ながら「人数を絞って」(施主)の開催だったとのこと。

 

お国の方でも色々なケースで「これはダメ」といった指示をしっかり出してくれれば何事もやりやすいのですが、すべてにおいて「自己責任(自粛)でどーぞ・・・」ですからね。

その語ほど「責任逃れ」が匂うものはありません。

何を考えているか常人の想像及ばぬ「マスク大臣」の周囲に、非常事態宣言の「出せ」「出さない」の不毛の問答はいい加減「つきあっていられない」というのが本音。

誠にもってバカバカしいことです。

時間の浪費・・・というか人生そのものをムダ使いさせられているような気がして・・・

 

昨日のEテレ「心の時代」。

国立がん研究センター元総長という方のお話を聞きました。

最愛の妻に先立たれ精神と肉体のボロボロ、疲弊からの立ち直りとそれからの希望についてお話しされていました。

 

当家でも時として「どっちが先か」問答・・・になりますが、「次は私だ」とそれぞれが言い張って話はそれでおしまい。

そんな時間が保てることがまさに「安養界(安楽の浄土)に至りて妙果」・・・「幸せ」なのでしょう(「至安養界証妙果」~正信偈) 

いつかはどちらかがそれを体現することになるのですが、どちらにせよあとのことは「まかせる」以外ありません。

昨日の私のお話は「楽」とは「まかせる」などと持論を。

 

さて、岩船墓地の六地蔵の先には埋め墓+受取地蔵の形態の墓地があります。

地蔵大小2体というカタチは近年のアドリブかもしれませんが、棺を置く台は取ってつけた感はありません。たとえばこれまでどういった活躍があったのだろうか・・・などと森の中で想像を膨らませる私がいます。

また、葬列はどんなものだったろうか・・・などなど。

 

詣り墓はどちら・・・と思うところですがコレは特に墓地に無くてもいいのです。

墓地の一番デカい石塔の類にそれを思いますが埋め墓に近くなくても構わないわけで。

ということでその「詣り墓」を何処に設けるか・・・といえば最近は専ら「自宅」なのですね。

 

生活の場の面前、庭などに石塔を建てるなどしてお詣りするという形式になるようですが、その発展形が当流で言えばお内仏なのでしょうね。

要は仏壇へ・・・ということになります。

 

当牧之原周辺は以前ですと自宅の庭に直接遺骨を納めた墓を建てることも散見さられていました。

当尾から奈良にかけてのそれら風習はピンと来ないところがあるかも知れませんね。

ただし日本の仏教文化の中心地域の思想でした。