岩船墓地の笠付石龕六地蔵 岩船寺口三差路

昨日の東京は118人とついに三桁の大台です(全国で367人)。

まだグラフは上を向き続いていますね。

昨晩のEテレ「パンデミック」緊急対談からの声、「日本人は想像力不足」(最悪のことを想定しての最高の防御ができない・・・)

に納得。

スペイン風邪など「パンデミックの歴史(ただし歴史的には人間とウィルスとの闘いはそう古くない・・・)」からの切り口でした。

パンデミック「100年が1回が10年に1回」の頻度アップについて人間の無秩序な経済活動(開発発展・・・文明化)を起因としていることも示唆していました

文明というものに付いて回るのがウイルスとも。

 

投げかけられた2つの選択「国家による統制か自己コントロール」 ②「国家主義による孤立かグローバルな連帯か・・・」

難題の壁に当たりましたが・・・正解はまだ先。

つまるところキレイ事と言われるかも知れませんが「自由と連帯」に決まっていますがね。

 

「外に出歩かないこと」「次は自分である」ことを皆が思えばウイルスに勝てるのはわかっているのですが・・・。

 

本日も当月中旬開催予定の法事について開催確認の電話がありましたが、一応はお斎の席は辞退させていただきました。

最後に「その時、私がどうなっているかもわかりません」と。

 

それにしてもドカーンではなくてジワジワの増加、倍々にならないところは不思議です。

増加がピタリと止まって振幅が無くなってくれればあとは下降線が望めるのですがこのジワジワがもしかして「終息も近い」の希望からくる判断の遅滞を招くこと、それは恐ろしいこと。

 

昨日は11時から奥方と本堂にて「春の法要」のお勤め。

檀家さんには「中止」の回覧を出していますので参加者はナシ。それにしても外のお天気ときたら穏やかな晴れ渡る空気に包まれて、開催していたとしたらさぞかし寺楽市も盛況だったろうと悔しくもありました。まぁこういうこともあらぁな・・・

 

境内では一昨日には本堂南側の足場を完全撤去していましたが工事に伴った小物の片づけとハイビスカスたちの整理。

これも奥方と二人で。

テレビでは「コロナ離婚」とかの新語が。

旦那が家にいるストレスから奥方が切れてしまうという現象があるようですが、当家の奥方は

「そんじゃあ、あたしはどうなるんだ」と苦虫を潰したような顔をしていました。

 

寺の坊守の仕事は供花(生け花)仏供と打ち敷・・・だけではありません。

植木屋、土木、塗装工、トビにコンクリ工事に各解体処理等「なんでも屋」の補助です。だから大事。

「ありがとう 〇〇〇」(まんぷく 長谷川博己風に)ですが息子にもそんな嫁さん来てくれるかな? 阿弥陀さん・・・

 

墓参の方たちとお互い距離を置いての雑談がしばしありましたがある方の息子さんが出張で中米の某所に向かったという件。このご時節かなり無茶な話と思いました。

あちらの国に行っても14日間の「ホテル留め置き」の処置がまずあるそうです。

 

先日は名古屋からの法事出席の方が新幹線ガラガラについて仰っていましたが、その航空機は200人乗りにもかかわらずお客は5~6人だったと。

乗員の方が多く、航空会社は名実ともに「あがったり」でしょう。

弱小旅行会社のみならずそれでは大手であってもアップアップでは・・・

 

オリンピック開催の動向と経済の停滞を気にするあまりの後手後手の躰はあとから糾弾してやらなくてはならないところですが今は医療崩壊を止めることに力点を置かなくてはならないのでしょうね。

 

昨日も医師の感染多数発生のニュースがありました。

ベッド不足、医療従事者のマスク等防御対策の不備は勿論の事「医師」の健康の確保は「最第一」。医師たちが伏してしまったら誰が診てくれるのでしょう。

まず医者と医療従事者に向かえ・・・です。

優先順位の一番ということですが、あのグラフがどこまで上り詰めれば気が付くのでしょうかねぇ。エライ人達は・・・

国民の思うところとこれほどのギャップがあるとは思いもしませんでした。

 

拙ブログで「止めるのは学校ではなくて山手線」と記したのが

3月2日。その直後に春の法要と寺楽市、そして5月のバス遠足までも中止の結論を出したワケですが、タラレバ失礼、少なくとも今から1か月前に1週間でも「都内の移動をストップしよう」と電車を止めなくても「できる限り動くな」の要請を出していれば今のような状況にはなかったのでは・・・

経済界からは反発が起こって後ろ髪を引かれるのでしょうが、そこを決めることができるかどうかが決定権者の役廻り。

 

目先の損失に気を取られ、判断の遅れから大きな損失を招く・・・この件、「はやくはやく」であってウィルス対策では当たり前の事。

「大丈夫(だろう)」のフレーズ、以前から適宜記していますがその語は私の大嫌いな言葉です(→ 高を括る 仏法のことははやくはやく)。 

その気持ちが少しでも心に浮かんだら・・・「痛い目に合う」という経験則からきているのですが・・・。

 

昨日の岩船寺墓地の続き。

石龕双仏の笠を記してきましたが、その墓地の道にお出迎えされるのが六地蔵の石龕です。

勿論大きな笠がありますし当然ながら「六仏」ということになります。すべて地蔵ですがね。

特に真宗以外のお寺の門の内外によくお目見えする六地蔵のパターンでもあります。

 

ただし石龕六体地蔵は標識にある如く珍しく古式。鎌倉期と伝わるようです。

また大きさも1m超えと立派で寄棟の笠、軒の反り具合も見ものです。

昨日記した岩寺歴代の墓地のスグ近くの道道端にさりげなくあります。

 

尚、画像⑥は浄瑠璃寺からT字路手前の標識。⑦T字路左が加茂駅方面⑧、いわゆる当尾の「辻」方向となります。

結構に道は狭いです。右が岩船寺。

このT字路を右折して少々、公民館の裏手に⑨の地蔵の案内板が見えます。

 

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コメント: 4
  • #1

    くりくり (日曜日, 05 4月 2020 20:05)

    不謹慎かもしれないのですが
    宗教家のみなさんは、こんな状況の時
    悪霊退散みたいな加持祈祷を行うのでしょうかね。
    昔は当然やってたはずですが、現代的にはどうでしょう。

  • #2

    今井一光 (日曜日, 05 4月 2020 21:44)

    ありがとうございます。
    当流に限って言えば加持祈祷の類はありません。
    そして悪霊退散の概念もありません。
    なぜなら「悪人正機」の教え、要は「悪」は「私」だからです。
    そもそもその手の「願い」は既に阿弥陀如来から一方的に「なされている」
    という教えですので称名念仏してありがたく受け入れて「まかせる」他は無いのです。
    四苦(生老病死)と煩悩にはただただ人は成す術ナシ。生きているから・・・でもあります。

    その手の祈祷が通用するものでしたら当にウィルスは消えて無くなっているはずです。
    まぁいずれどこかのタイミングで「私のおかげで無くなった」といった御仁が出現するものですが。

  • #3

    くりくり (日曜日, 05 4月 2020 22:43)

    ありがとうございました
    ただ、このような事態は神仏にすがるしかないというのもあてはまるきがします。すがってもどうしようもないというのもあたりですけれど

  • #4

    今井一光 (月曜日, 06 4月 2020 03:17)

    ありがとうございます。
    諸仏は人間にここを歩けよと言って道を照らしますが
    「生きている」ことから出てくる、特に雑多な考えがその進行の正確さを
    混乱させ迷いともなります。
    要は実際に歩かなくてはならないのは人間そのものだということでしょう。
    仏はそういうこと含め人の安養への道を進むことを微笑でもって「願っている」
    のでしょう。