構江の霊栄神社に寄ってみました 雨天自宅待機

実は昨日、奥方の所要に付き合って車にて関西方面日帰りの予定を入れていました。

数カ月前から予定していた件ですが、悪天候に付き私はドタキャン。新幹線で掛川より奥方独りで往復してもらいました。

1日置いて駐車料金600円(軽自動車)は安い。

申し訳ないので掛川まで送り迎えを考えましたがその金額を聞けば家で昼寝でもしていた方が余程お得でマシ。

 

この前線通過は結果的に関西よりも中部関東に酷い風雨をもたらしたようですが、これだけ雨が降れば外仕事もできず、家にこもったままでした。

午前中に雑用のため数件の用事を済ませましたがそのとき結構にインパクトある光景を見ました。

週明け雨天の郵便局午前の混雑ぶりはこの田舎町からすれば一種特異な場。

 

その雨中耳にしたのは穏健な相良人には滅多に聞かない罵声にも似た「分かってらぁ」の語。「おおっ」と思って見やれば雨天窓を開けての「応戦」の言葉だったのでしょうがその方は80歳くらいの年配の方でした。

 

要は郵便局正面の駐車場入り口にその方の奥さんを降ろしてそのまま車を停めて待機していたのです。

奥さん思いのイイ亭主のはからいでしょう。裏の駐車場も混雑していましたし停めることができたとしても雨の中を歩く距離が増えますからね。構造上駐車場利用者は正面に回りこまなくてはなりません。

 

私が郵便局駐車場に車を進めた際その方の車は私の入場を妨げていました。私が後ろに付いたのを確認してグルっと裏側から回り込んでその入り口近くに再び停車したのでした。

よりによって次から次に車が進入してくるうえに他にもその場所に乗り捨てて(雨に濡れたくない理由で)停めた車があったため、通りから郵便局駐車場への進入が大いに滞ったわけですね。そこで詰まってしまった先頭の女性が「こちらから出るのは逆行だ」の如くのクレームをつけたのでした。

まぁちゃんと駐車場に停めて置けばそんな景色にはならなかったのにね。

また高速道路の逆走事故をテレビで見て、何れの件も「その理由はない」と思った次第です。

被害者にならないために走行車線がやはり安全だとは思うものの問題は私がその齢になった時ですね

オートマチック車全盛の弊害と思いますがね。

 

雨天は集中力を欠くこと大で心配いろいろ、みんなイライラ。

あの様を見て余程の事がない限り雨に外出しないのが得策であると再確認したのでした。

 

横浜の息子は仕事が休みだったとのことで、「運のイイ奴」と思ったわけですが、こちら相良よりもかなり酷い雨と風に見舞われていたことを夕方のニュースで伝えていました。

当地の日没の頃といえば遠くに青空が見えていました。

私はお天気のことを気にしますが、それこそ人の生き死に・・「運命をも変えてしまう天の気まぐれと思っています。

 

さて、昨日久し振りに顔を出した掛川西郷構江の墓地。

その帰りにちらっと霊栄神社に寄ってみました(場所はこちら)。

野村氏にコメントをいただいてからずっと頭の片隅に置いていましたがブラっと立ち寄ってみました。

標識も案内もない民家の行き止まりにある小さな社で、個人管理の様。

風雨痛みが激しく、プレハブ小屋で囲ったそうです。

こちらが石谷氏を祀っている神社とのことです。

 

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コメント: 2
  • #1

    野村庄右衞門幸正 (土曜日, 07 12月 2019 08:26)

    遠江石谷氏についてかなり調べている松浦図書助さんのサイトがありまして、その方は母方の先祖が石谷氏なんだそうです。私は石田家の子孫なのでもしかしたら遠い先祖のどこかで繋がっている?かもしれません。が、そもそも石谷氏と石田家の繋がりを示す証拠が見つかってないので実際のところわかりません。
    以前、石田家の当主から石谷氏に関する研究をいただいていたので松浦氏にも提供したところ石田氏は西郷氏の本家筋なのでは?との見解でした。断片的なのでなんとも言えない感は充分ありますが史料に西郷八郎という人物が出てきます。石田家は代々と名前に八の字が入っているためという事と、石谷氏の本貫地の居館跡を受け継いでいる(伝)からという事です。江戸時代、上西郷近隣の五社神社の棟札に石谷家の人物の名前と石田家の人物の名前が書いてあるので江戸時代通して全く上西郷から石谷氏の人間が居なかったわけではないのかな?と思われます。その石田家の人物ですが、石田家系図には俗名が記載されていないので確認したくてもできませんでした。没年と棟札の年月日などで推測(当主とは限らないですが…)しています。わかっているのは、石谷氏の宗家は徳川家康に従って江戸に移ったという事です。以前コメントしたか忘れましたが、狛江市の石谷氏の菩提寺を調査した時に墓碑に我が野村家と同じ丸に九枚笹紋と石谷氏の九曜紋が並んで彫られていたので驚きました。

  • #2

    今井一光 (土曜日, 07 12月 2019 19:10)

    ありがとうございます。
    石谷ー石田の流れに関してその伝承があることは大事です。
    「証拠」といっても歴史上100%確定的といっていいようなものなどはないてせしょうし。文献史料一つとっても手心に忖度に脚色はつきもので都合の悪いことは抹消してしまうなどは今と同じでしょう。
    史実に近づけて知ることができれば幸運ですがそれには多方面から記された文献等の登場が必要です。よって世にいう歴史の部分でも大局的な流れ(一部それでさえも)以外のところは「伝承推測」以外ないものと考えます。
    「証拠」・・・エビデンスですがそもそもその論拠となる家系図自体も手心が加えられることは普通にあることですからね。
    石谷から石田の改姓などは分家が本家を憚って一字変えるなどありそうですし、伝承を重んじて考えればよろしいかと。
    狛江は懐かしい場所ですので時間が取れたらブラついてきます。