一位さま(広大院)のお下がりのお下がり 打敷に

拙寺十代祐賢の娘、十一代の姉「波さん」が伊達屋敷奉公あけにプレゼントされた聖徳太子像でしたが、書付は残るもののその経緯は漠然とした口伝であって当時の波さんの動きについてハッキリしません。

これは現在の韓国大使館辺り、麻布仙台坂の南側に伊達家下屋敷があってその仙台坂の北にある善福寺の銀杏を材にした像をいただいたということからその下屋敷に居たと考えましたがどちらの伊達屋敷に居たかの確証はありません。

 

そしてどのような経緯で若くして大奥女中として奉公に上がったのかも不明です。

当時の相良は何せ沈滞ムード。相良城は破却されてしまいましたからね。

 

ここで田沼家と波さんとそして広大院の時系列をさらっと。

 

       相良田沼    波さん           広大院

 

安永二(1773)                                                島津重豪娘鹿児島城生

安永五(1766)                後の徳川家斉と婚約 

                 ― 江戸城一橋邸へ 3歳

天明四(1784) 意知暗殺                11歳

天明六(1786) 意次失脚                13歳

天明七(1787)            近衛寔子と改める14歳

天明八(1788) 意次逝去 相良城破却                                  15歳

      相良 代官時代

寛政元(1789)              家斉と婚儀 16歳

文政六(1823) 意正相良藩   3歳            50歳

天保八(1837)          17歳       家斉とともに西の丸へ

                   「大御台様」64歳

天保十二(1841)                               21歳 家斉死去「広大院」68歳

天保十三(1842)          22歳       従一位「一位さま」

天保十五(1844)                               24歳  江戸城火災

                    半年後広大院逝去

弘化三(1846)      相良帰郷 26歳  

              不明

嘉永六(1853)   伊達屋敷より聖徳太子像  33歳

明治二十二(1889)      逝去 69歳

 

 

上記赤字が波さんの現状知りうる限りの動向ですが、不明点はたくさんあります。

①どなたのコネで大奥に奉公に上がったのか

②弘化三年の相良帰郷は判明しているが、伊達屋敷入りに関して

 は推測のみ。

 

波さんのご奉公で得た金員以外のお土産品として

①島津家からザボンの苗

②伊達家から聖徳太子像

③広大院から着物

を頂戴してきたと子供の頃から聞いていました。

均等にそれら家々を廻って奉公し30歳も半ばを迎える前に暇(いとま)をいただいたということでしょうか。

 

 

しかし実際にそのご奉公についてしっかりと記されたものといえば画像の通り最近になって発見した「広大院の着物」で作ったといわれる打敷からです。

 

その裏生地に裏書がありました。

この着物を波さんがおば(小母)とともに仏前の卓に掛ける打敷に仕立てたという経緯が記されていたのです。

着物の出所もです。

 

それよりあとの「聖徳太子像」の書付の通り私は嘉永六(1853)年までの七年間について、伊達家からのプレゼントの存在からして伊達家への奉公を疑っていませんでした。根拠としては当然でしょう。

 

また当初島津薩摩屋敷にも・・・とは思いましたが、おみやげに戴いたザボンについては広大院経由と考えた方がカンタン。

今、「島津家奉公」の線は消えつつあります。

そういうこと(広大院の口利き)を考えればひょっとしてその伊達家ご奉公の件も実際はなく、広大院の差配でプレゼントが決まったということも考えられなくもありませんね。

木像の製作に時間がかかることを考えても頭を悩ましましたし・・・。

そこのところの判明はまだにしろ、この打敷の発見に関しては嬉しく思いました。

 

昨日はこの打敷を持って史料館の長谷川氏へ。

当初は「クリーニングに出すとしたら・・・」と専門家の意見を聞こう、というものでしたが長谷川氏は「初めての事案でまったくわからない」そう。

よって他の類例のありそうな施設の学芸員に問い合わせていただきました。

 

何より史料的価値は少々ありそうな気もしますので「どうよ・・・」という意味もあって現物を見てもらいに行ったのでした。

 

すると専門外でわからないが、クリーニング以前に修復箇所があるので「それから・・・」ということになり、「ひょっとして、もしかすると修復費入れて<1000万円>などと出ちゃうかも」・・・と。

そういうことで尻尾を巻いて帰宅したというワケではありますが、長谷川氏のパイプでそのものズバリの評価をいただけないか依頼しておきました。

 

そこでもう一件、そもそも疑問点の「①誰のコネで大奥に・・・」について彼の意見を聞くと、「やっば田沼でしょう」と。

私としてはインパクトの強かった聖徳太子像の出所の方が頭にあってずっとこれまでは「伊達」でした。

 

相良城の仙台河岸から、伊達家との関りを考えたのですが、時間軸から考えて文政六(1823)年の田沼意正が相良藩を再興した頃と考えた方がスンナリいきます。

余計な事を考えたものでした。

 

そもそも広大院が三歳の時に婚約した豊千代(徳川家斉)は一橋治済の息子です。

江戸城一橋邸に入って2人仲良く婚儀まで養育されたということですが、宝暦九(1759)に一橋家の家老としてあったのが田沼意次の弟の田沼意誠(おきのぶ)だったことを忘れてはイケませんでした。その子の意致(おきむね)は一橋家家老から「西丸御側取次見習い」になって家斉の将軍就任に一役買っているよう。

 

そもそも相良と一橋家の関係は強く、田沼家は勿論、私の一押し為政者の鏡、代官小島蕉園も一橋家からの推挙でした。

 

ということで田沼意致(おきむね)は相良藩を再興した田沼意正に人材募集の呼びかけをし、あるいはその辺りを見越した拙寺十代祐賢が意正に大奥女中就職の斡旋を依頼したのではと考えました。

今のところそこがスンナリいく波さん江戸大奥入りの筋書です。

 

また「近衛寔子」への改名は「近衛家」の名跡狙いで一旦養子入りしての「公家降嫁」の表明ですね。

要は慣例通りの辻褄合わせですが、その手の表向きの体裁づくりの例は枚挙に暇がありませんね。

「見え見え」であってもです。

島津家とは縁続きの近衛家を利したということですが、大名家来(それも外様大名)の家から出た娘と徳川将軍との婚姻は「有り得ない」というのが当時の大勢でしたから。

 

また波さんが相良に持ち帰った3つのおみやげのうち「島津家から貰った」といわれるザボンの木は戦後まもなく枯れてしまったことを父が悔しがっていた事を思い出します。

今の玄関の前にあったようです。

 

広大院の着物より作った打敷2点のうちその1の裏書。

 

当山十世娘おなみ江戸西之御丸御殿弐の側おみて(のちに「おみよ」が正)様乃御部屋を篤実ニ勤て御たもんゟ出世して御つほね迄ニ相成申候処此縫入打敷に如来様へ寄進いたし候これハ旦那の着せられ候品也その出ハ一位様の御めしに御座候それより段々戴ておなみゟ寄進いたし置候也去年此品御殿ゟ三原屋へ向おくりおき当年八年目に登り四月十八日ニちやく五月十八十九日之両日ほと小母とともに仕立申候珍敷品ゆへ什物ニして後々に至り候迄も大切ニ取扱へき事幷ニ内仏御堂の中尊様兼用の小打敷一つ、さはりの敷ふとん一つ大りんの敷ふとん一つ内仏のわんの敷ふとん一つこふ五つの品御報謝のために寄進いたし申候也 

     

弘化三丙午五月  釘浦山大澤寺常什物

                                        

                   十世娘於波寄進

                   

                     十世祐賢代

 

少々長くなりました。

読み下しについては明日にでも記します。

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コメント: 2
  • #1

    野村幸一 (水曜日, 24 7月 2019 20:26)

    いゃあ、そういう家の歴史を感じる品があるのは羨ましいかぎりです。
    『相良区史』には野村庄右衞門家は藩御用達で商売をしていたかも。。と書かれていたので残ってさえいれば結構な史料があったはず。。と思うんですよね。元凶は火事火事火事!!
    江戸期は何をやっていたのか非常に気になります。廻船業は明治になってから10代目の文平さんが興したようですからね。

    庄十家の家印はカネショウなんですが、これも瀬名の藤太郎さんから教えてもらっていなければ消えて無くなるところでした。

    ただ、私の次がそういう記録を伝えてくれるかわかりませんが…

  • #2

    今井一光 (水曜日, 24 7月 2019 21:59)

    ありがとうございます。
    田沼時代の本通り新町は勿論、港湾集積地としての繁栄がありましたから、
    その田沼時代の終焉は経済は勿論、人心までも奈落の底に落としました。
    そして拙寺は田沼の城が出来上がる寸前に火を出して今の波津の地に来たわけですが
    幸いに火の災いからは逃れられています。
    ところが本通りにあっては火災焼失の禍は続きましたね。
    一瞬にしてすべてが灰燼に帰してしまうそれはとても恐怖です。
    今ある物を未来に渡って継承できればそれも幸せモノです。