烏合の衆寄せ集めと「長袖」 信長の見識 誤算

家の中や日陰そして車中に日向、温度差がかなりあります。

私は半袖シャツの上に一枚上着(トレーナー)を着て家の中で過ごしていますがそのまま晴れ間広がる外気の中に身を置けばどっと汗が・・・

 

昨日は会葬車中「海廻り」の葬送コースに道中着にて。

それは大した厚着ではありませんが、夏の日光を思いっきり感じました。朝のキラキラと海に反射する光に直射日光を浴びての心地よさは睡魔をも誘いました。

 

道中着とはと「簡衣」と「輪袈裟」のスタイルですが黒衣の下には白衣と襦袢そしてそれぞれを腰ひもで縛り上げますので少なくともいつもの半袖シャツの雰囲気とは違います。

特にその道中着の場合はどうしても裾のみだれを一応は気にしますので動きは特に鈍くなります。

 

面白い表現ですが、その動きについて一言「長袖」と言い放った例がありました。

要は「動けない、仕事ができない、とるに足らない、弱い」の表現ですね。

 

その語が本来その意を類推させるものなのかその人が初めて言い放ったのかは知りませんが、文書にその表現を使用した例は信長の周辺にあります。

信長公記」(巻13)「長袖の身ながら、一揆蜂起せしめ~

信長記」(尾瀬甫安-信長公記の改訂版)「大坂は長袖の事なれば」ですね。

 

大坂=本願寺=長袖=やわな坊さんということです。

そのうえに信長公記」の本願寺の「一揆蜂起」の表現は明らかに統率ある軍勢ではなく・・・烏合の衆、とるに足らない集まりと断定的。

 

それは「とるに足らない坊主が率いる、とるに足らない烏合の衆」ということですね。

本願寺に対する憎悪を込めての表現でもあったかも知れませんが、それにしても本願寺の組織を軽く見ていた嫌いがあります。

結果としては大いに本願寺も疲弊しましたが、織田信長は滅亡。

なによりも本願寺の「長袖」を甘く見る見識のなさ、判断能力の欠如を思います。

 

大坂から本願寺を退去させるに11年を要するというのはあまりにも時間の無駄。

「破却するぞ」の恫喝・恐喝をもっての大坂譲渡の強要は得策ではなかったですし、結果論ですがその11年の時間の損失に向かう本願寺敵視政策は無謀だったのかも知れません。

まぁ数日で信長に一蹴される大小名居並ぶ中、本願寺が「11年」も籠城、交戦したということは戦国期、いや日本史上において特筆ものです。

 

さて、先日は今井権七の登場する顕如上人像軸の私のお気に入りについて記しましたが、再掲載。

顕如さんの檄文が記されていましたのでそちらを。

 

「抑此日城ハ小国タリトいへトモ大乗相応ノ地ナルカ故ニ阿弥陀妙教流通ノ為ニ来生シ給フ五濁悪時悪世界ノ中決定シテ无上覚を即得ス豈悦ハサランヤ密ニ以レハ此ノ石山ハ往古ヨリ如何成約束有ベケンヤ去ル明応第五ノ暦信證院殿(蓮如上人)御建立以来今ニ於テ退転ナク槃昌セシムル条聖人ノ御本意ニ写スヘキ者カ爰ニ将軍当山ノ勝地ヲ所望ノ処ニ所存有之に因テ相決シ難キ由申之セハ将軍甚タ𥉖ヲ為シ一戦ノ旨趣聞ユ𡭗レハ当山ノ一大事也各々今度懇志ヲ厲ミ一筋ニ籠城タルヘク候は誠ニ有カタク頼母敷キ次第タルヘク候就中除シカラス候ヘ共法義談合候テ安心決定ノ上ニハ直油断無之可候不信ノ面々は片時モ強ク信ヲ得ラレ候は可難有候穴賢々々

 

元亀元年七月廿七日   釋顕如御判  

 

惣坊主衆中                       惣門徒中

 

南无不可思議光如来       南無阿弥陀仏

帰命盡十方无碍光如来  」

 

まず、「元亀元年七月廿七日」に着目。

顕如さんがいよいよ信長の横暴に反旗を翻さんと全国に号令をかけたとされるのがその年の九月といわれています。

それよりも1か月以上前の署名ということですね。

 

まぁこの書画は象徴的というか、ハッキリ言って細かい事はどうでもイイことなのですが、この檄文の存在があっての参照になりましょうが、やはり本願寺の腹積もりとしては当に対信長徹底抗戦の方向で固まっていたということですね。

 

檄文は基本的に蓮如さんの御文からの文言色々が散りばめられていていますが、文中「退転」の語はあの「不退転」の語と石山本願寺の明け渡し退去をかけて。

 

また「爰ニ将軍当山ノ勝地ヲ所望ノ処」とありますが、ここは少々疑問に思うところです。

その「将軍」の表現の記述ではなく解釈なのですが・・・。

普通に考えると敵は織田信長率いる軍勢ですのでその場合、

「将軍」というと織田信長を連想します。

 

ところが顕如の他の発行文書を見ると「信長」に対しては「諱」そのまま「信長」と呼び捨てが目立つのです。

たとえば

「信長上洛に就き此方迷惑せしめ候 去々年以来、難題を懸け・・・」です。

ということでここでの「将軍」は足利義昭と考えることができます。

それは足利義昭の立場の変遷あって本意ではないにしろこの元亀元年の三好三人衆ら討伐戦(野田城・福島城の戦い)に信長の指示によって将軍足利義昭は駆り出されているのです。

本願寺からすれば野田城・福島城は石山本願寺の鼻先でそれらが排除されたのちは本願寺の排除が目に見えているようなところ。要は足利将軍直々の到来だったわけで、それに呼応した門徒衆も居たようです。

ということは足利将軍を敵に廻すということです。

 

しかしながら「将軍甚タ𥉖ヲ為シ」の箇所を見てやはりそこまで怒りまくっているのは「信長ではないの?」で、この「将軍」とはやはり信長の事を指しているのかと悩んだ次第です。

 

翌年には義昭は信長に掌を反して信長包囲網を画策します。

いずれにせよ義昭の一貫性ない姿勢も目立ち結局槙島城(またはこちら)の敗戦によって実質、歴史からは姿を消すことになります。

 

 

「南无不可思議光如来」と「帰命盡十方无碍光如来」は御内佛の位置が逆になっています。

 

①②舞鶴殿は「長袖」どころか毛皮を纏っていますからこれからの季節、直射日光は大変でしょうね。

すでに鐘撞堂の涼しい所で「見張り番」。