足利義昭将軍追放  元亀から天正へ 槙島城

日銀の「クロちゃん」~境内に来るクロネコの名前から~「2%の物価目標」の件、ついに「自分の任期中には無理」と白旗をあげたようですね。

私はそんな大風呂敷についてはハナから信じていませんでしたが・・・。

なぜできないか・・・そんなものはカンタンです。

低金利でもカネが市場に出回らないからです。

その理由まで記せば・・・

① 庶民の財布の紐はずっと固いまま

② デカイ利益を上げた大企業はガッチリ内部留保

③ 富裕層は国内ではなく海外に資産を移転(課税逃れ含む)

④ ②③の理由はわかっているクセに①ばかり指摘してカネを使

    わない庶民の姿勢を嘆く

 

さて、先日はゲーム「しながら運転」で道路横断中の小学生を跳ね飛ばして死に至らしめたことから、あの会社にも「責任の一端はある」と記しましたが、あのゲームが鳴り物入りで発売された際、任天堂宇治工場の画像をアップしていました。

 

実はあの工場のある場所は私がある城址の位置を紹介するためのランドマークとしてのものでしたが、ずっとそちらからは離れた記事ばかりを並べていました。

そんなおり、あの事件を聞いて「ああ、槙島城 !」と思い出したワケです。

 

私のお頭の中もかなりこんがらがっていて、一言で脈略無しの思い付きでそれをベースにした行動ともなっていますが・・・。

「テキトーでイイ加減」、もっと記せば「このまま そのまま ありのまま」ですから。昨日来訪された方も「イイ加減大好き」と同調してくださいました。勿論その方は「イイ加減」を「絶妙なる差配」の意で言っているのです。そして「テキトー」とは「臨機」ですね。

 

任天堂工場の通りの向かい側は住宅街になっていますが、ほんの少し歩いた場所に槙島城の石標が建っています。

小さな児童公園の入り口近くです(場所はここ)。

何度か記した勝竜寺城(過去ブログ城址京都)とともに南部からの勢力を京都手前で閉塞させる防衛ラインの一つでした。

 

この地は後に秀吉の伏見城築城の際宇治川の流れを付け替えていますので、把握しにくくなっていますが、分流する川の中州にあったといわれています。

 

この槙島城で行われた戦いの勝敗が、歴史上「戦国期の前代未聞」という事件に繋がったといえば、少々言い過ぎかも知れませんが、なかなかその結果については触れられてもこちらでの戦いについて語られることはありませんね。

 

それは標記「征夷大将軍」が追放されて、元号が変わったということですね。高校教科書では「室町幕府滅亡」の字面で、あくまでも「さらっと」でした。

 

槙島城は真木島昭光の城。

昭光の「昭」は将軍義昭の偏諱で幕府奉公衆、将軍子飼いの武将でした。将軍がこの城に入ったのは信長に京都上京を焼き払われ神社仏閣等までも蹂躙(「戦慄的情景」ルイス・フロイス)された経緯があって、京都の対信長の防衛について不安に陥っていたところに百済寺も焼き払うというまさかの無茶苦茶振りを聞いたためでしょう。

将軍職がたとえ傀儡であったとしても素直に信長を承認し、その段階で槙島城に入らず、大人しくしてさえいれば、将軍職だけは担保され、もういくらかは幕府存命はできたでしょう。

 

槙島城は平城ですが、宇治川が天然の堀として流れていて、信長の大津方面からの進軍には一見抗えるような立地ではあります。ところが信長率いる圧倒的勢力はあっさりと宇治川を渡河して包囲、攻城したあげく、あえなく城は開城することになってしまいました。

 

籠城戦であったとしても川を渡る際の無防備で動きの悪い兵を矢玉で撃ちかけ、あるいは一向宗が和歌山で行ったように川の中に各仕掛けを念入りに行ったとすればある程度の戦闘も堪えられたかもしれません。

 

将軍義昭は将軍職絶対権威の維持を目論んだことは仕方ありませんでしたが、信長の首を取るくらいの策略を立てて自ら率先して前に出て兵を動かすなどの気概が必要だったかな・・・とも思います。

しかし配下3700余名では所詮信長率いる数万の精鋭にはかなわないでしょう。

結局のところ義昭は「まさか将軍は殺さない」と踏んでの反旗だとしたら中途半端な戦闘にならざるをえなかったのかも知れません。

もっともそんなボスに対して命を捧げて戦う気にならないというのが歴史。さらに将軍は逃げ去っています。

 

最後の画像は付近で見つけた中西伊之助という作家で政治家の顕彰標です。