岩船寺からわらい仏への小径 大工末行 伊派石工

車で「ひょい」という具合には行くワケにはいかなかったあの

わらい仏眠り仏ですが、よくもまぁ偶然とはいえ息子とそう時を違わないタイミングで行ってたものだとその仏の吸引力というものには驚きました。勿論阿弥陀さんです。

 

私は岩船寺から浄瑠璃寺までの道を歩きついでにその摩崖仏へ立ち寄ろうとしたのですがやはり心中「自動車で行けるかも」がどうしても消し去ることができません。

 

城址山頂などでしたら当初から徒歩(かち)以外選択肢はないものの地図上では平地上ですからね。

私の遠乗り用の車は一応は3ナンバーの四駆で山路悪路に関しての対応力はそこそこはありますが、かつて初めての道にてナビの案内通りに突っ込んでから途中からバックで引き返すことなど度々経験済みです。

 

ガードに天井が当たりそうになって、または狭小で通行不能になったり未知の道に迷いこむのは懲り懲りしてはいても何度もやらかして、とてもリスキー。

 

わらい仏へのコースは3コース(①ミロク摩崖②岩船から③浄瑠璃寺側から)ほどあるかと思いますが、その中央を進むコースを選択しました。

ミロク摩崖仏から行くコースはみるからに細道であることと徒歩にしようもそもそも車を停車させる場所がありませんし。

 

ということで岩船寺前の駐車場に車を置き、寺の拝観をしたのちにわらい仏方向に向かったのでした。

歩いていてこれならひょっとして車で行けたかも・・・などど嫌らしい根性が浮かびましたが、途中の自然石が左右から張り出した場所に出て「よかった」と安堵したのでした。

あの狭さでは軽自動車でも無理でしたね。

 

しかし世の中には強者が居て、石には車でこすったような痕跡が残されていました。

そしていくら強者でも「これはあり得なかった」と思った図が③の分岐。

私は当初は間違って左の道を進んでしまいましたが気づいて修正、正解は右の下りでした。ここまで来て「100%不可能」を確信した次第です。

 

しかし、他所では控えめにそのようにして「これなら車で来ればよかった」なども度々、そういう時は「歩かしていただいて有難う」ですね。

しかし私はこの下り路で足を踏み外して転びました。

カメラを守るために変な体勢となりましたが何とか土の柔らかそうな場所を「瞬時」に選んで膝から転んじゃいました。

携帯電話とそのホルダーに入れていたカード類が散乱しましたのでかなりの勢いがあったということです。

おそらくその件が最近の私の右膝不調の始まりなのかも知れません。

しかしあそこでもっと酷いことにならなかったことは有難いこと。

「後生の一大事をばたすかるべきぞ」と「なにのわづらひもなく、もろもろの雑行雑善をなげすてて一心一向に弥陀如来をたのみ、二心なく信じ奉る身なればこそ・・・(御文 大聖世尊章)などと自負。本願誇りしてしまう私でした。

 

そんなこんなでこの途上、わらい仏との対面がまだできていませんので少々の不安が過っていました。そこにあの巨石の出現。

山路に突如現れる単体の巨石というのも圧巻でした。

 

こちらは「当尾」(とうの)。

岩船寺も浄瑠璃寺もどうしてもその近さから「奈良」をイメージしますが実は「京都府木津川市加茂町」と京都なのです。

しかしやはり荘園領主としては奈良の興福寺、春日大社であってそれら巨大寺院からの派生した修行道場の「別所」として(勿論この場合は奈良が「本所」)各伽藍が古来より立ち並んでいたことが推測されます。よってアップダウンの丘陵に建てられた「塔」の「尾根」からその「当尾」(とうの)という呼び名となったと言いますね。

 

浄瑠璃寺の元の荘園領主は近衛家(藤原氏)だったよう。

武士勢力の拡大浸潤によりその領主としての地位が危うくなったことによって当時強大勢力だった興福寺に領地寄進しその域内での発言権を守ろうとしたようですね。

鎌倉から室町期に開発領主が畿内寺院勢力に土地を寄進し以後在地にて地頭などとして実地勢力として存在を維持したことと似ています。

 

尚、ミロクの線刻摩崖仏とわらい仏の石工は「大工末行」の作、伊派石工といわれています。