豊川海軍工廠公園に残る浅い防空壕他 命の軽さ

昨晩の7時のニュースの最中に例の押し込夜盗の下手人の3人組が捕縛されたという報が入りました。

捕り方としても威信をかけての大捕り物だったのでしょうが、天晴です。

とりあえず前代未聞の悪辣の仕事人が刑務所に収監されることになって一安心です。ほんの小銭のためにカンタンに人の命を奪う世紀末的犯罪でした。

 

どんな連中か知りませんが次に娑婆に出られるのは20年後かな?

裁判では後発組を抑止するための「見せしめ」的にその罪の重さを重ねて強調されることでしょう。

それこそ因果応報「自己の責任」に於ける咎。

しっかりとお勤めに励んでくださいませ。

一昔前だったら首が飛ぶところですからね。

 

さて、昨日は日本人の隠ぺい体質というか「正確な情報」を伝達するということに有意を持たず特に知らせないという姿勢の顕著といえば戦時下の情報統制。

私は特に拙寺縁者の「富貴栄さん」が犠牲になった昭和20年8月7日の豊川海軍工廠の空襲の件を思い出します。

 

B29爆撃機124機と先般記しましたがP51戦闘機45機も護衛で来襲していました。それにしても夥しい航空機があの上空を飛び交ったのですね。

海軍工廠のみをピンポイントに、日本で以前から「250キロ爆弾」と言われる「500ポンド爆弾」を3256発落として数千人の死傷者(死者は2500人以上)を出したというものです。

だいたいそれだけの航空機が会場から内陸に向かって上空を飛びその方向が怪しいと感じたら真っ先に連絡警報を出すシステムが存在したはずです。

にもかかわらずその情報を黙殺したのか工場側は空襲警報も退避命令も出していなかったのでした。

きっと「まさかここではないだろう」と勝手に決めつけるお偉いさんと命令系統の存在が推察されます。

 

あの年の8月7日という日について今一度考えると、前日の6日に広島に原爆が落とされていて翌々日の9日には長崎にも。

周知の通り15日には無条件降伏というタイミングでしたのでまったくの無駄な死であったと悔いるばかりです。

 

広島に新型爆弾が落とされて軍部では降伏やむなしの雰囲気が流れる中、一部「本土決戦」を断行しようとする力も作用してこちらの工場の操業を停止するに至らなかったのでしょうね。

米軍も夜中に爆撃をしたとすればそれだけの命が失われることは無いことも承知の上。

午前10時という操業時間を狙い撃ちにしたのは「皆殺し」を想定したということは間違いないところです。

まぁこちらの工廠には事前に降伏勧告のビラを撒くなどの最後通牒的警告もあったのですがトップは無視を決め込んだのでした。

 

たとえば退避命令を人命尊重の意味で出したとして、もし実際の目的が逸れて工廠とは違う場所がターゲットになった場合、作業の遅延についての責任を問われかねませんからね。

退避行動に関して「弱腰である」と断ぜられるということです。

 

私は、公園化されたその豊川工廠の跡地(場所はこちら)に点在する「防空壕」と呼ばれる塹壕風の窪地についてボランティアの方に「まさか実際はこんなものじゃあ・・・」と疑問を投げかけましたが、実際殆どこれに近いものだったとのこと。

取りあえず爆風から逃れられる程度の窪地ですね。

まともな防空壕も点在していたそうですが、どちらにしろ直撃を受けたり崩落して生き埋めになったりしていますので、大型爆弾には何らの効力も無かったようです。

しかしエライ人は鉄筋の入った防空壕、女子学生は吹きっ晒しの塹壕とは・・・

 

こちらのエリアは元の爆薬倉庫の北側にあたり、当時は人員の配置はなく事前情報をしっかり得ていた米空軍はこれより南側にある機関銃工場(機銃部)や爆薬製造工場(火工部)を集中的に狙ったのでした。

ということでこちらには倉庫建屋が今も残っています。

 

エリア南方は瓦礫で埋め尽くされたようでこの地に遺体が集められたのかもしれません。

史料館にはその画像が展示されたいました。

また新城からも女子学生が多数動員されていたようですが、ここでも奥平家の於ふうさんを思い出してしまいました。

 

 

この周辺で一瞬のうちに2500人の命が消えていったということを伝えていく義務が私たちにはあります。

そういう意味でもこちらの建物は墓標といっても過言はないでしょうね。

富貴栄さんは唯一当家縁者の戦争戦没者でした。合掌。