つくづく思う日本人の類似性国民性 豊川から

祖父の親戚付き合い、父親の親戚つきあい、そして私。

過去帳を眺めていればいろいろな家との交流が見られて、それぞの代で親戚としてのつきあいがあったことは推測できます。

ところが祖父あたりでの親戚づきあいはすでに私あたりになると「聞いたことがある」程度。中にはまったくつきあいも面識もない家がありますね。

近年2、3代での無数の人の出入りを見て、それ以前の人の流れを追いかけていくことなどはほとんど不可能だろうということと、何かハッキリとはしない大きな坩堝のような、大河のような、流れの中にある、「たまたま命をいただいた私」というものを感じます。

 

当家の特徴は「女系である」と祖父がよく言っていましたが、子だくさんの時代でも女の子ばかりで男が不在傾向。

祖父も姉が三人もいました。

それ以前も寺の継承に悩んで、三河・伊勢・清水・横須賀(遠州)の寺からたびたび養子を迎えています。

それらの寺や寺から出た多くの縁者と私との関係もいわゆる「遠い親戚」であって、厳密にいえば島国ならではの「同種」ですね。

こういった類は今いる日本人一人一人が持っているDNA伝承の歴史の共通事項であって、それをよくよく考えればやはりこの壮大な混血の繰り返しは「日本人はみんな親戚」です。

 

しかし詳しくは知りませんが、DNAに関わる主たる継承は「母方」からと聞きますので、当家「女系」ということで養子の繰り返しというものは案外古い性質というものを比較的よく残しているのかとも思います。

まぁそれが、どおってことはありませんが。

 

以前牧野古白の墓のある龍拈寺について豊橋空襲で伽藍が消失したことを記しましたが、豊橋のお隣の豊川には当寺東洋一といわれる大規模な軍需工場、「豊川海軍工廠」がありました。

この工場への空襲被災では特に女工さんたちの哀話が目立ちますが、いまでいう女子中高生ですね。

「学校に行かないでいいから武器を作れ」という国のお達しで周辺から書生さんたち多数が集められて日々武器を作っていた現場でした。

 

豊橋空襲が1945年6月19日、静岡空襲と同じ日です。

アメリカがそのような大規模軍需工場をみすみす見逃してくれるはずがありません。

そのような機無差別爆撃の大きなヒントのあったにもかかわらず、8月7日にみすみす2500~2800人の工員その他大勢の人々を見殺しにしたというのが豊川空襲。

 

この空襲は豊橋や静岡の無差別殺戮と違って工廠をピンポイントに狙ったものでしょう。午前10時30分から30分間、念入りに爆弾を目視で落としたといわれています。

空襲の際には空襲警報も退避勧告もなかったともいわれますのでいつもと同様のお粗末さを感じます。原爆投下の広島、長崎と同じですね。

 

その30分間のノーガードに受けたその被災規模をウィキから転記すれば「B-29爆撃機124機による250kg爆弾3,256発(約800トン)」。

中高生でいなくとも壊滅することは必至でしょう。こういう危険な場に子供を集めなくてはならないというのが戦争でした。

まあ日本独自というか、あの当時の政治社会の流れがそうさせたのでしょうが。

 

私は遠い親戚で昭和初期に大澤寺の境内にあった庫裏の離れに住まわれていた「富貴栄さん」がその工廠で亡くなったことを聞かされていました。

21歳とのことでしたから学生ではありませんが、若すぎますね。

 

その人は曾祖父の今井祐闡(12代)の妻ひささん(岡田姓)の妹のいしさんの嫁いだ赤堀順格(医師)の息子、赤堀宗男の長女でした。

ちなみに医者としての赤堀家は榛原に残っていますが、無論今は親戚づきあいはしていません。

私も一つの覚えとしてこれらを記していますのでそれぞれの人名は無視してください(知っている人がいればそれでよし)。

ちなみにひささんの「岡田」が現本通りの布施書店、拙寺の岡田総代となります。

また富貴栄さんの母親は池新田の山下歯科から出た人ですが今は当家との付き合いはありません。

 

最近になってここ相良の人は正月に豊川稲荷に向かうという人も少なくないということがわかりました。それはせんべいやらかまぼこ類やら頂戴する土産物でわかります。

私もそちらには行ったことがありませんでしたが、その裏の駐車場に豊川工廠で被災して亡くなった2500人以上・・・本当は実際に亡くなった人の正確な数すら把握できていない杜撰さ・・・の慰霊碑が建っていることは知っていました。

 

ということで先日、近くを通過した際、いつかは手を合わせに行きたいと思っていた豊川稲荷(場所はここ)裏に寄り道しました。

境内を正面から入って奥の方へ進めば、掲示板の矢印が。

これら乱立する旗を横目に進みます。

途中間違えて巨大な宝塔に吸引されましたがこちらではありませんでした。

誰かしら聞き聞き、駐車場まで出ればそちらにあります。

 

境内の人気とは雲泥の差。境内塔頭へのお参りは現世利益の方たちで溢れていましたが・・・。

時間が経ちすぎて、知っている人も少なくなっていますので致し方ないでしょうが、30分で2500人以上が死ななければならなかったという凄惨な現場が近隣にあったということは厳然たる事実です。

墓碑周囲に記された戦没者名を確認しながら、15分程度滞留しましたが、こちらへお参りされる方は見えませんでしたね。

念願の墓碑に参拝ができて満足。もちろん私はお念仏です。

心に「忘れませんよ」でした。子供に伝えていきます。

 

私は「商売繁盛」や「健康病気平癒」のお願い、願掛けにこちらに訪れたわけでもありませんので土産も買わずに帰宅しました。

もうあんなでたらめでイイ加減な管理しかできない戦争というものを将来に再びやらかすわけにはいきませんね。

そういったDNAが私たち日本人に流れていることを忘れてもいけません。