入場不可 太田道灌築造庭園 浅間神社お隣

塗装やら大工仕事で小屋に籠っていると「もう出ましたか?」と史料館から電話があったそう。

まったく失念していましたが史跡研究会の会合がありました。

その中の雑談で会長が話していましたが、静岡市の今川義元の銅像製作ついて現状頓挫しているようなことを言っていました。

義元生誕500年に併せての企画です。

 

桶狭間の今川義元の銅像に先を越されて静岡市の動向について「さあ・・・どうする」という具合に見守っていましたが、まったくもって「今川」となるとやる気なしの感が漂います。

どうしてだろうと私が疑問を投げかけると「お金が集まらない」といいます。要はその今川に興味のある人が居ないといことです。

皮肉にも静岡には小和田先生というその道では第一線の研究者が控えているのにも関わらずですから、人の活用もできず、観光資源の活用もできないというお寒い状況の様。まぁ宣伝活動が貧弱なのでしょうね。

せっかくの全国に知れ渡った戦国武将にも関わらずほとんど生かし切れていない現実を嘆いています。

 

また今川義元のイメージとして貴族的装束か武者鎧の姿かについてもその雑談にありましたが、どうせ作るならやはり真っ白けの顔にお歯黒、輿にのった肥満系、なにより高貴を発する装束のイメージは払拭させて、「海道一の弓取り」の名の如く、桶狭間の銅像を意識するワケではありませんがそれを超えるような風格が欲しいと思った次第。桶狭間の銅像は少々線が細いような感じでしたから。

 

ブログでは以前から静岡駅前や駿府城付近に家康だけでなく今川義元に加えて武田信玄、伊勢宗瑞(北条早雲)そして太田道灌まで「並べちまえ」と形振り構わぬ無茶と思える事を記していますが、まんざら駿府に無関係ではないですからね。

信玄と早雲はそれぞれ甲府と小田原がケチをつけてくるかも知れませんが法的に歴史的人物の名の使用は問題ないでしょう。

いつもの事を記しますがだいたい小田原に早雲(伊勢宗瑞)は住んでいなかったはず。

駿府ベースの時間帯の方が断然小田原滞留時間より多いですからね。

 

また、太田道灌については至る所に銅像が建てられていることはどこかで記していますが、道灌が駿府に来ていたことも有名な話。今川義忠が塩買坂で討たれ、家督争いが発生、遺児の龍王丸(のちの氏親)と従兄の小鹿範満が争って内紛状態になった際、道灌は小鹿範満のバックアップ、宗瑞が龍王丸の後援となって双方が駿府で交渉していました。

 

さて、浅間神社に隣接した場所、といっても殆どお隣と言ってもいいくらい。あの慶喜邸にも近く麻機通り沿い臨済寺方向に太田道灌築造庭園」なる空間があります(場所はこちら)。

慶喜駿府時代を経た頃、初代静岡県知事の関口隆吉の「静山荘」そして、現在は静岡鉄道の管理地。

フェンスに囲まれていて、中には入れません。

外見、「たまに草刈りはしている」程度。

実際に太田道灌が手掛けたのか不詳です。