今川義元の名を今一度  静岡人の思い そろそろ

曳馬の城については家康がその名の語呂「引く幕」・・・「終焉」を嫌って浜松城とその名を改めたことはブログにて。

そもそも今川義元が桶狭間で討ち取られたことが、この地が錯乱状態に陥った原因となったのでした。

 

一人の有力者(義元)が居てその亡き後にデキの悪い息子(氏真)が家を継承した。ただそれだけのことなのですが、まったくそれ以降収拾が付かなくなってしまったということですね。

殊に息子の氏真と同様にこれまでは「貴族化戦国大名」と揶揄されてその無能振りを強調されていた義元ですが、死後のあの騒乱振りを見れば、それまでの安定した領国経営と大勢力を掌握していた力量は特筆ものだったのだろうと思います。

 

さて、何だかよくわかりませんが駿府では今川義元にスポットを当てようと、「今川くん」なるキャラクターがデビューしたようです。ただし静岡市非公式ということですので、これから育てようということですね。

浜松の「家康くん」をライバル視しているようですが、今一つキャラの取り合いというか、言った者勝ち、早い者勝ち的雰囲気ですね。

 

私は以前から静岡市民の今川氏不理解については腑に落ちないところがありましたが、まぁようやくここへ来て、旗振り役が出てきたということは、今川家も浮かばれましょうし、いいチャレンジだと思っています。

しかしそもそも駿府で「家康くん」があってもまったく不思議が無いくらいで、後出し回避で今川にやむなく「白羽の矢」だったのかも知れません。

駅前に家康の銅像が既に建っているくらいですし、本音としては家康だったはずでしょうね。

 

以前にも記しましたが小和田先生も「義元の銅像建立に関して桶狭間に先を越された」と仰っていました。

思うに静岡駅前の家康の像の隣にはより大きな今川義元、そして武田信玄、伊勢宗瑞(北条早雲)の像があっても不思議はないですね。少々欲張りですが、そのくらい当地は戦国の雄が取り合った場所であることを強調できます。


武田は今川追討のあと一時的にではありますが駿府の盟主になっていますし、伊勢宗瑞が駿府に居なければ今川氏親の継承は無かったこと。それは今川義元による全盛期が無かったことにも繋がります。何よりも北条五代という関東の覇者としての北条家なども無いといっても過言ではありません。

 

そして何よりもここだけは強くご指摘させていただきます。

小田原駅新幹線口ロータリーに「馬上の北条早雲」の銅像が建っていますが、コレは歴史的に無理がある呼称なのです。

伊勢盛時(宗瑞)は北条早雲などという名は当の本人でも知らなかったでしょう。

彼は小田原には息子の氏綱を配して自分は韮山に居たきりでした。伊勢氏から「北条」への変更は宗瑞が亡くなったあとのことですね。亡くなった場所も韮山でした。

 

よって駿河がヤル気さえあれば「伊勢宗瑞」で売り出す事もOKなのです。ここで小田原と一戦交えるのも面白いかも知れませんね。話題性ですよ。


この件、論拠に関しては100%駿河に利がある事案です。

まさに「是非に及ばず」、ノリノリで一石を投じたいところですが、静岡人は何分、おとなしいですからね。

過激な静岡県人の登場を待ちたいところです。既成概念をぶち壊してハッといわせましょうよ。


そういえば相良城を最初に手掛けたのは武田信玄。高坂弾正の縄張りです。銅像が建てればいいですが田沼一本槍の町の雰囲気からしてこれは無理でしょう。


本日は世は祭日。「言い触らし団右衛門」(司馬遼太郎)でお馴染み塙直之(塙団右衛門直之)の命日-元和元年4月29日。夏の陣です。彼の無茶振りと境遇に思い入れがありますが、出自各説ある中、遠州横須賀衆説が身近でうれしいです。

 

画像は小田原駅、桶狭間公園、静岡駅そして・・・

「今川さん」(サイト)