2018年12月31日昼 名簿上302回の鐘が衝かれました

あれだけ吹いていた風がビタリと止まり比較的温かに感じる大晦日でした。

お昼12時から始まった除夕の鐘。

開始時間の予約名簿には100人超えの予約者があって驚かされました。

終了時刻の15時30分には302名の名が連なっていました。

 

待ち時間の問題でしょう、お帰りになった方が2名いたといいますが、終了後に3名、鐘楼に上がってきたご家族で番号札を全員分受け取らなかったという方も多く鐘楼上ではかなりの数を「現場判断」(代表者のみの記載で全員附けるう)していたようです。

 

またNHK静岡スタッフの皆さんご苦労さまでした。

18時50分のニュースでご紹介いただきありがとうございました。全国版ニュースの1カットもサプライズでした。

 

何よりたくさんの参拝者。

初めて来られた方も散見、檀家さんで市議の方がフェイスブックにアップしたところ「それを見て来た」という人がいたそう。

おかげさまで世話人・檀家さん一同すべてが楽しくこの1年の拙寺ならではの締めの「法事」を無事に済ますことができました。

 

画像①は朝のミーティング「ケガしないケガさせない お客様は仏様です!!」の図。

③トン汁でご接待。仕込みは前日から。

 

 

さて「除夜の鐘 昼に衝く」と日本の「文化」(鯨食・和装)について、ここ数日記していますが以前お電話で直接ご意見をいただいた中に「除夜の鐘は日本の文化である」から「夜11時以降に衝きましょう・・・」というものがありました。

 

しかし「それって本当は・・・」のところ先月号の「月間住職」に詳しく記されていますので要点抜粋させていただきます。

 

『日本では少なくとも室町時代から、日の出から日没までを6等分する不定時法が用いられた。

そして江戸時代には、日の出が「明け六つ」として1日が始まり、日が暮れれば「暮れ六つ」で1日が終わった。

 

つまり現代のように1日の終わりも始まりも午前0時ではなかったのだ。そして「明け六つ」から「暮れ六つ」までの間、朝五つ、朝四つ、昼九つ、昼八つ、暮れ七つと数えた。そのために現在の午後3時ごろに食べられた軽食を「おやつ」と呼び、それが今でも残っているというわけだ。

 

江戸時代、寺の鐘は時報(拙寺は時鐘御用-またはこちら)としての意味を持ち、文字通りの社会インフラだった。当初は明け六つ、昼九つ(正午)、暮れ六つの3回、鐘が撞かれた。

その後、一刻に1回撞かれるようになったが、「真夜中の午前0時」に寺の鐘が鳴らされることは全くなかった。

多くの人々が寝ており、ニーズがゼロだったからだ。・・・』

 

要は、文化、非文化受け取り方はそれぞれですが「歴史」としての長さは、さほどでもないというのが深夜に鐘を撞くことなのでした。夜に人は出歩かないという時代でした。