空前絶後と言っていいのか昨日報恩講当日は晨朝(午前6時)用意の時間帯から半袖OKの温かさ。
殆ど「夏」といっても過言ではないくらいの一日を楽しませていただきました。
私の報恩講の記憶といえば北風と白い息そして総代さんたちの鎮座する庫裏玄関にはストーブというところ定番ですからね。
やっぱり暖冬というか温暖化傾向なのでしょうかねぇ。
後者でしたらあまりその快適を喜んではいられませんが、たまたまの天気のいたずらでしたらサプライズなおかげさまでした。
そうなれば逆に酷い目に遭遇することもあったりで、この件平均化されるのでしょうが。
さて、拙寺の土蔵撤去後の跡地には当初は物置、しかし「耐震化して庫裏倒壊後の退避場ともしたい」といったリクエストをしましたので、大層立派な様相となりました。
途中であの様子を見て「3階にしちゃえば・・・」なる意見を聞きますがそうしたいことはやまやまなのですが。
3階と2階では基礎と柱の太さが違ってしまい、そうなればさぞかしもっとお高い「物置」となってしまうのでした。
ということで、現状でも物置では勿体ないという気持ちが芽生えてから、2階部分は私の住空間とするとして、1階部分はイベントや展示スペースにできたら・・・などと思いついたところです。
掛軸の修復等を進め解説付きで展示してみたいと思います。
まったくノー天気に着手依頼したことは手洗い、流し等の設備がまったくないというところ。そこが使用を限定させてしまっています。
「思いつきだけで生きている」と奥方がため息をついています。
先週末に折半屋根の工事が殆ど完了したかの図。あとは大工さんが入ります。
やはり思いつきでお城を建てるという有徳人については以前記しましたが(尼崎城)やはり「ちょっとね・・・」という気持ちがあります。
発見された相良城の地図に「天守はなかった」ということから三重の天守の夢を見たばかりにイイ加減なものを建てなくて良かったとも記しました。
また吉田の小山砦について天下のインチキ城の如くの罵詈雑言を浴びせている私ですのでその尼崎城を地元の皆さんが喜んでいるということを差っ引いてももやもやというものが残ります。
まぁ遊園地や史料館のレベルとして考えてあげればいいのでしょうね。
ちなみに城郭考古学の奈良大千田嘉博さんは、石垣の積み方も伝統の技法でなく「史実を踏まえる必要があり、本当の姿も示してほしい」との談。本当である(あるいは本当に近い)ことが大切であると。
出鱈目なモノであっても価値観の違いがあるのでしょうがそれ(史実無視)を「恥」と思うかについては地元の皆さん次第です。少なくとも観光資源となるかどうかは未知数でしょうね。
まぁこれから積み重なるメンテと維持費で悲鳴があがってくることも想定できます。
「城といえば天守閣」との連想をする人ばかりではないのですからね。天守閣や櫓、御殿、屋敷など何もない(遺構)「城」を好んで(・・・ありのまま重視)廻っている方たちからすればそれを「邪道」というのかもしれません。
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