設楽原八束穂 土屋昌次(昌続)と温井左近昌国墓碑 

「息子が一番行きたい大学だからよろしく」と言ったそう。

あの裏口入学の件で逮捕されちゃった文科相のお役人、佐野殿は未だ「裏口入学を依頼した覚えはないと罪状を否認しているそうですが。

音声テープが残っていると言いますが、その言葉はどう考えても「依頼」としか思えませんがねぇ。

何かにお願い(ご依頼)する時、私もよく使う語でもあります。

 

ちなみに当流では本山が経常費を末寺に「よろしく」頼む金員について「御依頼」という言葉を使います。

「よろしくお願いしま~す」・・・です。

これからあの大学の入試を通り抜けて合格しちゃった学生さんのリストが出るかも・・・という報もありました。

やっぱり隠れてこそこそが「白化け」になった時はネタとして面白いものがあります。

学生名簿などが出回ったらどなたの御子息かスグわかりますし、いずれにせよ内部からのリークはありましょう。

当事者は胃が痛い日を送るかも。小ズルい事をすると後が大変ですね。

 

さて昨日記した土屋昌次が討死したといわれる設楽原の模擬馬防柵前にある石標(こちらも)でしたが、実は連吾川の東の大地上に「土屋昌次の塚」があります(場所はこちら   こちらも)。

土屋昌次の昌次は通称、正式には「昌続」。

そして元は武田家譜代血縁の金丸家に生まれて金丸平八郎と名のっていたようで頭角を現し奥近習六人衆として信玄付、あの三方ヶ原で成瀬正義と昵懇だった鳥居忠広を討ち取ったのが彼でした。

 

おそらく連合軍の控える馬防柵直前での一斉射撃による「蜂の巣」になって当然ながら即死を考えますが、なぜか彼の塚はそちらからかなり東側の台地上にあります。

石碑の裏にもいま一つ墓碑らしきものがあってそちらの持ち主が温井左近昌国です。従者郎党の名でしょうがその十字砲火の一斉射撃の下主人を必死に連れて勝頼本陣近くまで退避したのでしょうか。

 

そう思わせるのが看板の文言の通り。

勝頼が無事に戦線離脱する姿を見て亡くなったとありますので。温井が主人の兜首は敵に渡しまじと必死に掻きとって大将勝頼に報告、そしてこちらで自刃したというのがスジなのでしょうね。

とにかくその鉄砲玉の降り注ぐ中、温井がそこまでやり遂げたことは凄いことだと思いますが、その姿を見た敵方も「手出し無用」の計らいがあったのかもと想像をめぐらしたところです。

 

連吾川付近からこの台地上広範囲な地名が「八束穂」(やつかほ)と呼ばれますが、それは一般的に田園風景に稲穂の実る地を想像します。しかし私のイメージはといえばヤツカ・・・は八塚、八墓なのですが。

いやそれ以上の墓たちが迎えてくれる場所ではあります。