山家三方衆 田峯井代菅沼→明智→土岐に 土岐定政

昨日の月曜日はスッキリ晴れて安堵しました。

なにせその日は東京在住の檀家さんの法事がありましたので数日前から「大降りだけは何とか・・・カンベン」と。

近場の方でしたらまだしも、遠距離からの行脚は気の毒すぎますからね。

先週末は土砂降りでしたので余計心配しました。まぁそんな時は「しゃあないなぁ」で済ませますが、その希望通り朝からスカッと晴れ渡ったということです。よってやはり「おかげさま」の連発でしたね。「偶然」とは一言で言いますが有り難いことです。偶然は何度も続かないことも判っていますが・・・

友人は第一戦のコロンビア戦の「PK+レッドカード」の天与の幸運は宝くじで1等が当たったようなもので「2度も3度も続けて宝くじが当たるものか・・・」と毒づいていました。

 

ここまで引っ張って第三戦のポーランドに負けて予選敗退の確率は50%はありますから、浮かれて載せられてハシャいでいるのもどんなもんでしょうかねぇ。

「若手のキーパーにしたら・・・」という声が裏で飛んでいそう。

私でさえあのシーンのVTR(二試合連続)を見るたびに恥ずかしくなってしまいます。

当の御本人は相当図太い神経をされているのでしょうね。

奮起を促す事も大事ですが、あの失敗によってプレーが小さくなることが怖いですね。海外からも相当皮肉られていました。

 

さて、昨日の井代城の続き。昨日はサラッと記しておしまいにしてしまいましたので補足的に菅沼氏全体をざっと記します。

 

菅沼氏と簡単に言ってもなかなかその分流は多くてハッキリ言って登場人物多すぎ、難解極まりないというところ。

一族各流は散らばって割拠したことと菅沼氏の通字の「定」の羅列が酷く紛らわしくさせていますが、それぞれがそれなりに名を遺したことは特筆ものです。

だいたい菅沼氏の出自は・・・ということからになりますが、定説では美濃土岐氏から。

三河の作出の菅沼に土着したのが始まりでそちらから三河各地に勢力を伸ばしていったといいます。

それが田峯・島田(今の新城北西部)・長篠・野田の菅沼と称し野田菅沼はさらに新城菅沼・海老菅沼と別れています。

井伊谷三人衆(近藤康用菅沼忠久鈴木重時)の菅沼は長篠菅沼からの別れの都田菅沼と呼ばれる一族でした。

 

また「山家三方衆」と呼ばれる奥三河有力国人層グループがありましたがそれが「作手の奥平」「長篠の菅沼」「田峰の菅沼」と菅沼二家が顔を出しています。

家紋は新城小学校の校舎にありましたように「釘抜」主体に変化させたものと「土岐桔梗」と出自を示唆するような家紋を使用している家もあります。

概略リンク先は田峯菅沼で記していますが、奥三河という場所が今川・武田・徳川・織田という超有力大名が競合進出する場であって彼ら一族はその大勢力の下、苦痛を伴いながら大いに振り回されたのでした。

 

特に本流である田峯菅沼が成り行きから致し方ないのでしょうが徳川を離れて武田に最期まで拘るという結果的に失態を犯してしまったことから大きくその繁栄をもたらすことが出来なかったのでしょう。

 

昨日記しました井代城は菅沼定広の五男の定仙(さだのり)が入って井代菅沼家と呼ばれます。城の麓の宝珠院の過去帳にはあるようですが没年不詳のようで、墓地も拝見させていただきましたが、それらしき墓石は目につきませんでした。

定仙の場合は今川→徳川→武田と渡り歩いている事から徳川からするにその仕置きは厳しいものがあったかも知れません。

 

ただし定仙の後継者は甥の定政という人でこちらは家康に近侍して戦働きに功があったそう。その後定政は出自の「土岐」に姓を戻しています(家康の命により)。

のことからやはり当時の事情として徳川に「反旗を掲げて甲斐に逃げた」ことが子ではなく甥とする家督の継承があったかも知れません。

 

この定政の母は定仙の姉です。実父が明智定明という人で斎藤道三に討たれたことにより、叔父定仙の元に逃れたといいます。

定仙が家康麾下のあった際に人質として定政を家康の許に置いたのでしょう。当初は菅沼を名のりましたが明智にそして土岐にと復姓したのでした。

反旗を翻したにも関わらずそこで怒りに任せずに処刑に至らなかったところも(かなり気分屋さんの感じはしますが)家康の大きさを感じますね。

彼の武功は秀吉も評価したといいます。

甲斐巨摩郡切石一万石から下総相馬一万石と「大名」の名跡ではありますが「菅沼」姓ではなくなっています。

 

菅沼家系図はウィキから。詳細転記するには夥しい人物の羅列となります。