新たな城近隣に新たな城  新城城は新城小学校

当地片浜小学校~

片浜とは旧榛原町との境界地域の海岸線の集落で旧名「境」 古くは新旧の滝境城がその背後の台地先端にあります~

が相良小学校に統合されるという噂はもう何年も前からありましたが、いよいよその動きは現実のものとなるようですね。2017年からの予定だそうです。

紙上によれば1993年の170人をピークに児童数が減少し現在の全校児童は34人。

2、3と4、5年が複式学級になっているとのこと。

地区住民からは反対の声が出ています(最後の画像)。

市から見れば統合に絶大なメリット、地区住民からみれば遠距離通学のデメリットあって私から見て何ともいえないところですが、全校生徒34人という数字だけを見れば、「何という少なさ!」と衝撃を受けるばかり。

先日も県立高校の定員不足から再試験が行われるというニュースがありましたが、今まさにどんどん子供が少なくなっている静岡の現実を見させられているところです。

 

さて新東名開通によってこれまでの「超不便」としか言いようがなかった「新城」が「超便利」に変身したのがつい先日のことでした。新城の語源は勿論「新しい城」です。

では「古い城」はどちらといえば長篠城でしょうね。元は長篠設楽原戦でその名をあげた奥平信昌が徳川家康の長女亀姫をめとって天正四年(1576)現在の新城小学校の地に新しい城を築いたのが「新城城(しんしろじょう)」。

「新城」にさらに「城」が付いているのはそれより半世紀ほど前の天文元年(1532)に菅沼定継が石田の崖上(幽玄川河口)に築いた城が当初の「新城(しんじょう)」で、その城と区別するために「新城城」と名付けたといいます。

 

遺構は平城で現地は学校と役所と住宅地になっていますが付近電信柱にある住居表示の通り、「入船」とあるように豊川を堀としながら水運を期待した立地であることがわかります。

 

平城の場合に住宅化しているともはや発掘調査は断片化してなかかな進まず全体を把握するのが不可能に近いものがありますが、役所や学校施設が建っている場合は適宜大規模な発掘調査が行われることがあります。それが先日の画像でしたが、この新城城の土塁が残っている場所が新城小学校です(場所はここ)。

 

小学校等学校内施設に足を踏み入れることは現状タブーです。

保護者や教師から見て見知らぬ侵入者には神経を尖らしている時代であることは承知しています。

つもの「笑顔と挨拶」だけでは通用しない部分ですね。

「当然にあなたはだれ?」の顔で見られ、もしや「変な人」とでも判断されれば通報は必至。話はエライ事に発展しかねない場所でもあります。

許可権者は校長であり、許可を得ずに立ち入った場合は歴とした建造物侵入罪が成立してカンタンにお縄を頂戴する場所でもあります。

 

この手の学校内に遺跡があってそれを求めて放浪する場合は放課後がいいですね。授業時間中は意外に騒ぎになりそうな予感。必ず職員室にて許可を得るのが常道ですが一応は子供たちに紛れることができますので放課後は目立たずに動けます。校庭を突っ切ったとしても保護者と思ってもらえますし。

あの時は、最初にあった教師らしき方に事情を説明したら「まずは職員室へ行ってほしい」と。その様子を見ていた低学年の女の子が「私が案内します」と名乗りをあげてくれて2階の職員室まで連れて行ってくれました。

 

それまでして・・・と思う方もいらっしゃるかと思いますが、学校は相当気を遣う場所ですね。当たり前ですが何しろズカズカ入れば即通報の時節です。

 

校舎の端の掲げられた学校の校章を見てください。

以前井伊谷三人衆の一人菅沼忠久のところで記した「菅沼三つ目」が(画像②)。菅沼色の出た町であることがわかります。「菅沼」家統治の時代が長く明治維新まで続いたということが大きいですね。

 

菅沼定実の異母兄の菅沼定昭が丹波亀山4万石を食んでいましたが無嗣断絶、そして改易の憂き目にあうところが通常パターンですが祖父の菅沼定盈の威光がまだ残存している時代、幕府より救済処置がなされて菅沼定実が新城藩主として入いっています。ただし、「大名」ではない交代寄合(格の高い旗本 1万石未満  参勤交代あり・・・)としての「大名待遇」に留まりました。