境内弓道場「金的中」の額 弓術鍛錬の日常を彷彿

昨日は奥三河設楽の田峰観音の石灯籠の画像をアップしました(場所はこちら)。

以前「菅沼さん」とお会いしてお恥ずかしながら「田峯」を「だみね」と「た」を濁って読む件を知ったのでしたが、行ってみての第一印象は伊奈街道に沿った「奥深い山中」の感。

 

私事ですが、これまで海の見える場所以外の生活がなかったということ、当然ながら海運・防衛ライン等「海」を意識した城塞ばかりを見て来たせいか、このような山間地での繁栄、それどころか生活というものが成り立つものか・・・などと今住まわれている方々には大変失礼ではありますが、疑問をも感じました。

ところがこの地の文化とそれらを遺していこうという雰囲気はむしろ海岸線に住む私たちの地域よりも十分に溢れているようです。

 

こちらの高勝寺を平日にうろついても殆ど「人ナシ」。

ところが賑やかな場面も当然にありました。

境内掲示板の通り、縁日には歌舞伎が興行されているのですね。

そもそも芝居小屋があるということは建屋の維持もさることながらお芝居の中の演目とそれをたくさんの人たちの力で盛り上げて伝えていく継続的な努力が不可欠ですね。

 

目をくぎ付けにされたのが弓道場。

絵馬と額の整列にも驚かされました。

以前大野城周辺の地名で「的場」の地名について記しましたが場所によっては「矢場」ともいいますがこれは弓矢の鍛錬の場です。

こちらの地名は「設楽町田峯字鍛治沢」と鍛冶関係の職種の存在も推測できます。

遠州三河地方では弓術が武門だけでなく庶民レベルまでに普及していたといいますが、こちらでもおそらく古い時代から弓師・矢師が神仏への奉納のためだけではなく庶民の交流、言い過ぎかも知れませんがゲーム感覚で競い合ったとものと考えられます。

 

そういう意味で以前相良でも「弓道」のイベントを検討したらいかがかと(たとえば相良草競馬の際の流鏑馬など・・・)思ったこともありましたが、歳を取ったせいか「どうせ無理だろう」と決め付けて大分トーンダウンしていますね。

「田沼意次」オンリーではインパクト今一つであると言ったら怒られるでしょうが。

 

格天井に絵が描かれた弓道場脇の建屋に掛けられた額たちに記されている語は「金的中」。

浜松中央図書館によると金的とは文字通り金色の的の事。

「ゲーム」としては最初は大きい的からだんだんに小さくしていき、その最小の的(直径二寸  6cm)に金箔を貼ったことからと

的は射小屋から十五間(27m)の距離にあってその小さい的を矢で射貫くことは一大名誉となります。

その成果を得た者が板の額に「金的中」と記して、その寺社の拝殿または射小屋に奉納したといいます。

 

「金的中」の額には弓道の流派、大和の日置弾正正次(1492‐1501)の日置(へき)流の名が。弓道を大衆化した人ですね。

吉田重勝(1512―1590)を祖とする雪荷(せっか)の名も見えますが三河北遠に広がった弓道の流派といいます。

 

こちらのお寺の御本尊は十一面観音。梵鐘も小ぶりながら文明期のものといいます。