宇連川と別所街道・飯田線に沿う山並み 新城大野城

「痛み」に知らんぷりされたり記憶から消えているフリ(善意含め)をされたりしても自身そのネガティブ経験を忘れさせてくれることがありますので、それはまんざら悪いことではないような・・・。

体験の受け取り方は人それぞれではありますが、とことんあっけらかんに振る舞われること、それによって少しの間でも何かを忘れさせてもらえるということはうれしいことです。

 

ただし常時その状況にあることは難しいことですから人というものは難しい。

孤独である時間はもっと大量にあるでしょうからね。

 

自身の制御が難しい者(幼き弱者等)にとっては時にそういうお相手やポジティブ思考と接することは苦痛でありましょうし、そう考えたとしたら外に向かおうという気持ちを閉鎖させてしまいかねませんね。

 

他人事の風の同情の言葉よりも、うっちゃっといてもらった方がよほどありがたいことかも。

しかしながら、そういうことを承知しながらもあらためて申し上げます。

あの日から7年、苦労苦難の数々をお察し申し上げます。

どうか独りにならず、外に向かってください。

 

さて、先日記した大野城、本城・二ノ城・三ノ城の続き。

尚、その二ノ城・三ノ城の表現は私のこじ付けではあります。

その際は本城北側にあたる天神社を三ノ城に見たものでした。

(航空地図画像赤星印上から三ノ城・本城・二ノ城です)。

 

宇連川に注ぐ中小河川が削った谷と丘(舌状台地)を利用して作られたのが大野城。長篠城から宇連川沿いに北上します。

その本城の北、狭い谷の向こう、大野の町を宇連川とその丘陵が近づきかつその間を街道が走るという地形で北からの防備を求めたであろう城砦の存在を思ったのがその天神社の丘陵でした。

「本城」と思しき城塞が以前から言われているいわゆる大野城ですが(場所はこちら)、各城砦の尾根を辿ればそれら舌状台地の根本に繋がるような地形です。

二ノ城と勝手に命名した台地は本城のある城山(じょうやま)の南方の台地で3つのうちで一番のスケールです。

ちなみに航空地図①の二ノ城周囲の四角で囲った地名、「的場」

「火燈山」「勝負坂」などイイ味を出しています。

火燈山などの名称からして南側からの様子を本城に報せる烽火台であったことは優に想像できます。

 

②画像の奥が天神社に登る階段と赤い旗が見えます。谷を通して手前の山が本城。③は南側の標識。④⑤⑥が登城口。登城口を上がって振り向くと⑦.。

切岸らしきものに土塁に曲輪、まぁどちらを撮影したとしてもただの藪にしか写っていませんので割愛。

画像的に比較的わかりやすかったのが最後の3枚。堀切らしき曲輪と曲輪を隔てる構造と井戸址らしき窪みを確認。

 

本丸?には「清澄稲荷」の鳥居がありました。

石塔の胴体には逆さ型猪目の窓が。そう古いモノではなさそう。近代になって建てられたものでしょう。

こちらも冬場限定の行脚です。

冬場であっても迷いそうになりますが、「どっちかな?」と不安になりかけた頃に掲示板が現れます。

 

登城口掲示板の通り「足助次郎重範の一族 鈴木喜三郎」・・・などと記されれば思わず足取りが軽くなってしまいます。