ゴチャ混ぜいい加減がイイ 神仏習合 春日大社

昨日のテレビ小僧の続き

超ホームで予選敗退組、秋葉原お買い物ツアーの時差ボケガーナにボロ負けした西野監督が本戦登録選手のメンバーを発表しました。

案の定の予想通りでクビにした前監督がピックアブしていた選手たちが勢ぞろい。

あの首の据替はいったい何だったのでしょう。敢えて言えばホンダ選手の立場が怪しかったこと。

まぁ新監督としては「サプライズ人事」などの冒険をやらかして、その結果から大失敗と叱責されるよりは、「無風でそのまま」というスライド人事にしておけば、譬え三連敗の惨敗だとしても「仕方ないね」で済まされるという責任回避の方向性はわかります。

 

まぁ人気選手とそれらを推すスポンサー契約を重視したといってもいい選手選択が想像できますし、いわゆる大衆迎合の一つかも知れません。

新監督という名誉などカタチだけ、西野監督がはたして自身の判断だけで彼らを選んだのではないでしょうね。

ホントに今回人事は矢面に立たされるだけ嫌な立場です。

メンバーを見れば冒険の「ぼ」の字もなし。

 

私はw杯とは「原石を磨く土俵」という意味合いもあって国レベルで若手を育てるということに意義があると思っています。

歌謡曲に「昔の名前で出ています」というタイトルがありましたが、失礼ながら30代過ぎれば蹴球世界ではもはや爺。

ざっと見、平均年齢高すぎでしょうよ。

どうせボロ負け三連敗するのなら若手(20代前半)にガンガン行かせた方が見ていてスッキリするのですが。

 

若い連中の力は未知ですよ。意外な収穫だってあるかも知れませんからね。いくらでもそういった原石は転がっているものでそもそも監督とは自分の色をだすためそれらからダイヤモンドの輝きに磨き上げるということが仕事なのですが。

どうにも納得のいかない日本サッカー界の不可思議です。

 

サッカーで「演歌」の懐かしい曲名を出しましたのであと1件。

ずっとテレビニュースで報じられていたアメフトです。

日大のみなさんからすれば恥辱のうえに恥辱を重ねたといってもいいあのアメフトタックルから始まった色々。

早いところ「ごめんなさい」の声が出来ていればああはならなかったと思う自己含めた「管理」判断の甘さからくる自業自得ですから同情の余地はまったくありません。

もはやあの「前監督と理事のクビ」をあげるまで世間は「溜飲を下げない」レベルへ怒りと不満は醸成されてしまっているよう。

 

しかし関東学連からの処断からニュースで報じられる前監督さんのその言葉への評価には「うそ」の単語ばかりが並んでいました。

いい歳したオッサンがどのチャンネルを回しても「うそつき」呼ばわりですからね。苦笑するというかちょいと気の毒な気持ちにもなりました。

 

私が20代の頃に居た会社にて、友人のSクンがマネージャーの質問に対して「その場しのぎのいい加減、適当」を申し開きしたところ後日フロア朝礼の一同を前にSクンに向かって「この嘘つき  !」と罵倒したことがありました。

それを見ていた更に若いアルバイトのNクンが後から「折れたタバコの吸い殻で~あなたのウソがわかるのよ」と口ずさんでから、いよいよ皆は面白がってSクンのことを「嘘つき」と呼ぶようになり、それが彼のあだ名になったことを思い出しました。

これは屈辱的な語に感じますが当人はいたって能天気。むしろ喜んでいましたから。

また彼は生来の「いい加減」な性質でしたからね。

 

さて「いい加減」という語については当ブログでも物事に対するにごく推奨すべきスタンスであることを記していますが、この件は説明責任をはぐらかして保身のための出鱈目のウソ八百を並べるたてる政治家その他とりまきのそれとは違います。

それらはどいつもこいつも「折れたタバコ」ではありますが

イイ歳したオッサンたちがしらばっくれて厚顔の太い首を「橋台のイモ」のように並べる有様は見ているこっちが恥ずかしくなります。

 

私の好む「いい加減」を敢えて言い直すとしたら「いい塩梅」「ちょうどいい」ですね。「鷹揚でデカイ」をも類推します。

 

一昨日のNHK番組「歴史秘話」のタイトル「奥深いニッポンの信仰心」にて日本人の信仰心の良さとは「ゴチャマゼでいい加減だったから」であると断じていました。

それが日本人の良さ「寛容さ」「懐の深さ」なのですね。

歴史世界ではそれを嫌ったのが明治政府でした。

それが最大の愚行と揶揄される廃仏毀釈だったというワケです。

そのバカバカしい施策はスグに修正はされましたがその瞬間的短慮の及ぼした仏教遺物の損失は計り知れないものがありましたね。そしてまた国家神道を基礎とした教育が結局は各大戦へと導き、国民を苦難の道へと引きずり込んだというのが歴史でした。

 

先般の拙寺奈良遠足の最大焦点は「奈良国立博物館」。

そちらで開催されている「創建1250年記念特別展 国宝 春日大社のすべて」<6月10日(日)まで>でした。

それを聞いた奥方は「なぜにして春日大社へ ?」と聞き返していましたがある意味その質問はもっともかも知れません。

単純に考えれば「春日大社」は神社のイメージが大ですから仏教史との関連の有無を知りたくなるでしょうね

 

しかしその番組の通り、日本人の宗教観(神と仏のゴチャ混ぜ―神仏習合)について語るにこの春日大社の存在は欠かすことはできませんね。

 

夥しいほどの春日曼荼羅の御軸の整列から「神仏習合」の証拠の品々。価値ある機会でしたが、時間がなし。いつも同様「図録で復習」を試みます。

入館料1500円+図録2500円+別館図録1000円で5000円也。

それからあちこっちの拝観料たるや・・・人の興味を充足させるにはおカネがかかる・・・。

 

④が数ある春日曼荼羅の一つ。神の本地仏(「本地垂迹」)について詳細が描かれています。

③の春日大明神の権現、本地仏が不空羂索観音という説がありますが釈迦であるという説の後ろ盾にあるのが⑤⑥の「春日神鹿(しんろく)舎利厨子」。舎利とは「釈迦の骨」ですからね。

私が嬉しい遺物といえばやはりコレ。

「黒漆五輪塔嵌装舎利厨子」です。

 

最後の画像が今回展示会にて「鳴り物入り」で登場したのは鼉太鼓(だだいこ)。

舞楽を伴う雅楽に使用される巨大(658㎝)な太鼓です。

本来は左右一対、源頼朝寄贈といいますが昭和51年まで現役使用されていたと。よくもまぁ・・・でもあります。

修復の手を入れて今回の展示となったのでした。元々は興福寺にあったもので神仏分離令以降に春日大社にて保存されるようになったもの。当ブログで一つ一つピックアップしていたらキリがありません。奈良へどうぞ。