伊藤忠と丸紅発祥 近江商人に見た真宗思想

朝起きて室内12℃には意表をつかれました。

昨日の宴のあとというか「春の法要」でひっちらかったままの本堂やら境内のやきいものドラム缶やらをのんびりと片づけて幸いにも日曜業務日にあたった地頭方の処分場にゴミを搬入しました。

午前中は旧相良町内仏教会の催す「はなまつり」がありましたが息子に出てもらいました。

夜はテレビ小僧。NHK2330のサイエンスZERO「山城」探しの「赤い地図」について興味津々でした。

 

さて、「春の法要」の私のお話の中で脱線して触れた近江の豊郷町(またはこちら)にある伊藤忠兵衛記念館の仏間。

私共お馴染みの門徒のデカイ御内佛と真宗ならではの仏典が並べられていました。

 

伊藤忠兵衛記念館のある場所(こちら)は旧東山道(中山道)と又十屋敷と同様、古くからの街道筋。

中山道が東国との往来の街道NO.1として君臨していた時代は今の東海道隆盛のイメージとは掛け離れています。

昨日の「橋」つながりではありますが大平洋に面した、大河下流を横断する経費とリスクは計り知れない浪費と捉えられていたのでしょうね。

橋梁技術など未熟でまずは大河に橋などは架けられていない時代。アップダウンの難渋はありますが、「渡河」という最大難関の数々を回避できるというメリットがありますから。

渡し船を依頼し河川増水によってそれが不通になれば予定をもたたなくなりますからね。

 

伊藤忠兵衛と伊藤長兵衛兄弟については各お調べいただくとして彼らが創始した現在の巨大商社へと発展したベースこそ近江出自のまた真宗的宗教感の存在があったからこそと勝手に思い込んでいる次第であります。

 

初期の商標が梵鐘のマークというのも親しみがわきますが地区

名士の寄進による正信偈の展示にチャキチャキの浄土真宗グッズひと揃えの姿を見て感動させられました。

 

こちらでいう本山とは西本願寺。

最後の画像、屋敷から見えたお寺は鶏足山佛願寺なるお西のお寺。変わった山号については「犬上君」関りの「黄金の鶏」が埋蔵されているという伝承から。

鶏は早起き・・・勤勉の象徴ですのでそれも近江商人の古くからの姿勢なのでしょう。

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コメント: 6
  • #1

    野村幸一 (月曜日, 09 4月 2018 08:48)

    野村の呉服屋も伊藤忠の八重さんのような厳しい教育をされていれば潰れなかったかもしれません。旧邸の写真を見ると、うちもこんな感じだったのかな?と思いを馳せます。

  • #2

    今井 一光 (月曜日, 09 4月 2018 20:28)

    ありがとうございます。
    近江商人といえども次から次へと変遷する社会状況に波乗りの如く立廻っていく才と
    機への運というものがなければ伊藤忠の如くの奇特はありえないでしょうね。
    相良本通りの商家は京都の町屋の如く細長く奥に伸びた様子で裏に庭のある作りですね。

  • #3

    野村幸一 (月曜日, 09 4月 2018 23:08)

    うちの呉服屋の屋敷も伝え聞くところによると裏に庭があったそうです。辻さんという方が呉服屋の使用人として働いておられたそうで、その辻さんの娘さん(辻しづサン)から両親が記憶をたどって見取図を教えてもらったそうです。

  • #4

    今井 一光 (月曜日, 09 4月 2018 23:26)

    ありがとうございます。
    そんな経緯があったのですか。
    辻さんという方の名、またどこかで出くわすかもしれません。
    しっかり記憶にとどめておくことにします。
    今のところ私の中ではその名は聞き覚えのないものです。

  • #5

    野村幸一 (木曜日, 12 4月 2018 18:21)

    今はもう辻さんのお婆さんもかなり前に他界されて世代も変わり交流は全く無くなりました。

    確か今も波津におられるのでは?と思います。

  • #6

    今井一光 (木曜日, 12 4月 2018 21:10)

    ありがとうございます。
    了解しました。
    そういえば近隣に「辻さん」、ありますね。