朝比奈小泉の宝篋印塔 朝夷さま ソケットを見てみる

宝篋印塔にしろ五輪塔にしろ現存する石塔がバランスが良くてまた劣化崩壊がなく完全系容姿、当初の姿が伝えられていれば希有奇特な事でその出遭いとなって感動します。

特に宝篋印塔ならば細部装飾等の凝り具合にも注目しますね。

 

昨日記した通称「朝夷さま」、朝夷三郎の墓といわれる宝篋印塔はこの地区トップレベルと少々オーバーな表現をしましたが、まんざら吹聴ではないと思っています。

 

直近でいえば「石切りさま」がありましたがこちらよりも崩壊が進んでいるのと装飾も念入りにしようとした作者の主張はある程度伝わってきますがやはりシンプル。

相輪の代わりに代用品の五輪塔の宝珠らしきものがのっかっていましたし塔身が不明となっていました。

 

またこの北方の新野地区の新野左馬之助を祀る佐馬武神社の石塔などはほとんど五輪塔の残欠で目を凝らしてやっと宝篋印塔の相輪らしきものがうかがえる程度でした。

さらに北にある横地一族の墓域にも宝篋印塔がありましたが。あちらは菊川市ですね。牧之原市の勝間田氏のものともなればバラバラの組み合わせであることが一見してうかがえるほど。

 

その朝夷三郎の墓と伝わる宝篋印塔はまず磨滅崩壊が少なく残存状況がよくやはり伝承を裏付ける如く鎌倉時代は遡るのではないかというところではありますが、惜しい事にやはり不完全で基礎部分から塔身が欠落しています。

輪郭を刻んだ隅飾りは立ちギミなところは天晴ですが、笠下2段と基礎上3段の今の接合部分に塔身があったはずでしょうね。

 

勿論、現在の上部が欠損している相輪も後付けであることは想像ができます。まず石質と色味が違いますね。

一応は相輪が差し込まれている部分を無礼を承知で確認させていただきました。

やはりソケット、差し込み部分はボーリングの深さも大きさも違うようです。

 

この石塔は不完全とはいいながら御前崎市の貴重な芸術品、財産だと思います。

文化財指定がされているのかされていないのかわかりませんが、案内・掲示板の一つも立てて人々に周知させるべきと感じました。この石塔の存在を知っている方は地元のごく一部の方たちだけですからね。

そもそもこの墓が「朝夷三郎」のものというだけで夢が広がるというものです。

歴史の登場人物の格でいえば、ここでまた失礼な事を記しますが先般急激に有名になった新野三郎の比ではないような人ですしね。

 

画像①は道路から見た図。河原﨑家の墓地がお隣。

②朝夷さまの隣には石塔2つと残欠があります。

③が朝夷さまの相輪接合部分。大きさと深さの割に小振りです。⑥⑦はお隣の小振りの宝篋印塔2つの相輪部分です。

 

大き目の宝篋印塔の塔身の部分はその形状から(立方体に近い)建築物の基礎に流用されやすいのかもしれません。

コメントをお書きください

コメント: 2
  • #1

    くりくり (月曜日, 02 4月 2018 23:50)

    横路城跡の宝篋印塔は、埋まっていたバラバラなものを
    とにかく組んだということですね
    墓でさえ、暴かれ破壊されたのでしょうかね
    それにつけても、朝夷の宝篋印塔は立派ですね

  • #2

    今井 一光 (火曜日, 03 4月 2018 00:08)

    ありがとうございます。
    宝篋印塔などの石塔は芸術品。
    それは建造当初から石工が気合を入れて製作したものでしょうね。
    それがなかなか完璧な姿で残らないのは各パーツに分かれていて逸失が多いからでしょうね。地震など地盤変化による崩落によってバラバラになることもあれば人為的に持ち出されたりで全パーツが残っていることも稀なれば、後世になって何とか完全形に近づけたいとの意図から他所から拝借したりでおかしなカタチが伝わったりしています。
    人の気持ちとしてはバラバラになった石塔部位たちを何とか一つのカタチにしてあげたいという気持ちはあるでしょうから。