大野二カ寺は淵龍寺に統合 移設石仏群を推測

昨日は某製薬会社の管理職の方と話す機会がありました。

講義等を聞いて質疑応答のようなシチュエーションに質問を投げかける場合、その方は米国との往来をしていますので会話は英語のみとなりますが、「語学にそう自信がない」とのことでトップバッターで質問をするといいます。

まぁ英語力に関しては謙遜なのでしょうが、一理あると思いました。

 

最初に質問をしてしまえば多少ズレた内容だとしても何とか誤魔化しがきくといいます。

やはり会議にしろ講演会にしろ質問の機会が与えられて無言とあっては男が廃るというものでしょうね。

 

私も「講義」というものを聴く場面がありますが、そういう場合最後に催される「質疑応答」に何か疑問の一つでもぶつけなくては、「何も思う事のない自身」の躰に腹が立つのと、無反応の空気を講師に感じさせるのは失礼ということもあって講義も終盤近くには疑問に感じた事のあれこれを抽出しています。

別に義務ではないのですが・・・

 

そうなのです。

質問をすると決めた場合やはり「最初」がラクなものです。

さりげなくさらっとした質問をして期待した回答が返ってくればそれでOK。自己満足して帰ります。

ところが私が訪れる歴史関係の会というと質疑がしばしば「自慢話かよ・・・」と思わせる件があって閉口することがあるのですがそれについてその方に告げればやはりその手のことは「あるある」と。

 

特に最近感じられたことだそう。

新卒入社希望者の面接官として学生に対面した際といいます。面接のあとに学生の質問タイムがあります。

そういう時に質問がないというのは致命的ですね。

 

しかしある書生さんのその「質問」とはあり得ないくらいの専門用語を並べてのものだったのこと。

周囲の学生は勿論、研究者でなくては持ち合わせられないような単語の羅列だったよう。

面接官=人事課(専門外)と思ってのことか、ひたすら自身の知識をアピールしようとしたものか真意は測れませんがその面接官として席についていた方は医科学の専門研究者ですので「やれやれ」の溜息だったよう。

 

「よく勉強をされていますね」と返したようですが、やはり内心「好印象には繋がらない」とのことです。

そういう場合の知ったかぶりの「知識あるある」の風は禁物ですね。

ヤル気は買えますがやり過ぎは無用です。

 

ただしわが息子の件となれば「無言」「無反応」「居眠り」の輩。

知識は貧弱で自慢話とは到底なり得ませんが、もう少しばかり前向きに人の話に耳を傾けてもらいたいものです。

聴く耳がないから質問さえ浮かばない・・・そういう意味での「やれやれ」でした。

 

さて三河大野駅から宇連川の橋を渡ってスグ⑧画像、川を左手にして北にすすめば淵龍寺というお寺があります(場所はこちら)。

先日記した永明庵不二庵の掲示板に記されていたようこの廃寺二カ寺がこちらに統合しています。

 

不二庵に見えた五輪塔と酷似した五輪塔が並んでいました。

永明庵は東陽小学校になっていますのですべての古い墓石たちはこちらに来ているのでしょうね。

 

そして寺の名称の「淵龍寺」とは珍しき名です。

淵とは宇連川の「淵」を意味するでしょうし、境内は殆ど川の崖の上の感。かと言って「崖っぷち」の「ふち」は「縁」ですので地形を表しているもののそのフチとは宇連川の淀みを連想しますね。

 

また「龍」について。

この近くの桐谷不動滝のところでも記しましたが龍や大蛇とは人間が抱く自然への畏怖です。

そしてもう一つどちらかというとより人に親しみが深い河童の件。古くから淵といえば河童でしたね。

 

子供たちが水遊びに出かける時、昔の親たちはよく「河童が出る」と脅しをかけました。

そこには「気を付けて」という親心と「深みに足を取られないよう」に無事に帰って来てほしいという願いがありました。

 

調子づいて利口を振りまく世渡り上手より、愚か者でも淵に足を入れずに無事に居てくれればそれが何よりですね。

愚かな父がそう思いました。

 

⑥宝篋印塔が一番古そう・・・

⑦画像はパーツパズルの積み違い。

意図は五輪塔なのでしょうが・・・。

 

最後の画像2枚が鳳来館