鷲山伝八郎 県(縣)小平治 興嶽寺の墓碑「採掘」

昨晩の天体ショー(月食)タイムは少しだけお付き合いするのみで勘弁願いました。寒いですからね。

子供が小さかった頃は、あたかも私自身が主催している場の観劇にでも赴くが如くに光に邪魔されない山中などに繰り出して、車内でひたすらそれらを待つという贅沢な時間を過ごしたものでした。

家族の不愉快そうな顔を同時に思い出しますね。

 

毎度私どもが車両を使用して「昨日は東、今日は西」という具合に法事予定以外「居何処定めぬ」・・・(こちらは「念仏嫌い」の南郷力丸の浜松屋での台詞)私で各ご迷惑をおかけしていますが、奥方はその「○○嫌い」の部分が気に入って、最近は特に「遠回りと借金嫌いの~」と罵っています。

 

それは私の性格の方向を中傷したものですが、「遠回り」に関しては、墓や神社仏閣のここぞというものがあれば立ち寄って時間を無駄にするということ、そして車でもリフォームでも金利が低いのだから四の五の言わずに借り入れでも何でも起こして「やっちまえ!」と私が無茶を言うからですが、奥方の仰る事は至極御尤もな事。

私が一人で寺の経営~経を営む~などできるわけもなく、それら御注進有り難く承っております。

ちなみに私がそれを言えば「思慮(考えるのが)嫌いな~」ですね。

 

さて、西の方向に東名高速を使用しない場合、まず大抵通過するのが、塩買坂から菊川病院へ向かう道、あるいは途中棚草を通過して掛川方向に向かいさらに西の方向に分かれることもありますが選択は気分次第。その脈略の無さが助手席からの「注意」に繋がるのですが、私は「菊川の道は紛らわしい」と反論していました。夜間菊川の台地上の茶畑の中、大いに迷ったことがあって菊川は特に苦手ですね。

実を云えば私の訪れた場所、各ある中どうしてもそれらは「点」でしかなく頭の中は立体化できていない単細胞振りの私がありました。

 

え~ここかも知れない・・・という場所、堤城(またはこちら)の先に「奈良野」という場所があります。余程注意して走っていなくては分らないでしょうね。まぁ東横地と言った方がピンとこられるかと思います。地図からしてもそう大きな村ではなかった感がありますが。

 

私ども大澤寺が「本楽寺」を名のって、高天神城包囲戦の徳川方の陣にあった段平尾東の内田屋敷等河川が入り混じる湿地帯の東側対岸になりますね。

「高天神の跡を尋ねて」によると、この奈良野村を知行していたのが鷲山伝八郎といいます。

拙サイト「高天神崩れの推測」では「・・・鷲山伝八郎 県刑部左衛門・・・」とあります。

 

鷲山さんとえば以前ブログでも記していますが(  )土方辺りではよく目にする名です。この鷲山姓はまちがいなく同一祖先を持つ一流であることは間違いないところでしょうが、上記書物には、「現在平田、奈良野、土方、五和等に県、鷲山の姓を称するものが多く、何れも高天神鷲山の裔であろうと言う」とありました。

 

県、鷲山という件、これは以下記述もあります。

鷲山伝八郎は

「天正二年開城の時、西退(西が徳川方東が武田)し大須賀配下、三井山、川上村、天王馬場の各戦に抜群の武功があり天正九年の落城の際大いに活躍した。この年十一月に病没した。

子孫武右衛門は平川村に居住し、その後『県(あがた)安方と鷲山を一代代わりに名のった」と。

 

国による戸籍管理のない時代、苗字を「かわりばんこ」に名のっていたようですがどこかの時点で変えるのが面倒ということになったのでしょうね。

続いて

「武右衛門の分家に奈良野旧問屋本陣に「県小平治」があり、今に後裔を伝えて同邸内に伝八郎の供養碑が在る。亀応常鑑居士。」

 

そして別の書籍によると近隣の寺に鷲山伝八郎の名が記された墓碑があるということでその寺興嶽寺に寄ってみました。

菊川病院に向かう道から寄り道です。奥方は大いに怒りますが。

この場所は奈良野からも遠くありませんが(場所は上記に)台地の上で街道と街道の間にあたります。

 

門前から見た風景は立地的に台地上ということと土塁の如く境界から城砦の趣をも感じました。

残念ながらその墓石は寺にあっても無縁墓であって掲示板等一切なし。目を凝らして探すだけです。

どういう経緯でこちらに来たか、推測するに、整地あるいは開墾そして放置によりそれに心を痛めたどなたかあるいはこの寺の住職が引き取ったのでしょうね。

 

それを第一に感じるのが、墓碑から推測するその宗旨とお寺の宗旨が違うからですね。

 

無縁墓の中には宝篋印塔残欠もちらほら。

付け加えますが、拙寺にあの墓が持ち込まれたとしたら・・・

どちらかに設置場所を考え、丁重に花と線香でお迎えします。

おそらく奥方は「余計な事すなぁ~」ですね。

墓石は収集するものではありませんでした。

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コメント: 1
  • #1

    河東村出身者 (土曜日, 03 2月 2018 06:47)

    横地村誌には、横地村の有力な家が横須賀藩の参勤交代がなくなって没落した旨の記述があるらしいので、寺もそのあおりを食ったのかもしれない、と思ったのですが、遠江国風土記伝をみると横地近辺のお寺はみな興岳寺関連で違いそうです。

    上平川まで行くと青龍院の末寺になりますが、こちらも曹洞宗なのは一緒です(曹洞宗内もいろいろあるらしいですが) 

    また、名主のなのりについては、所轄の役所に届け出をしていたようで、河東の笹瀬家については相良の役所に届け出た写しが残っています。代替わりのときなのであまり手間ではなかったのであろうと推測しますが、古文書で確認したいところですね。