いよいよ生ふ・・高天神に遊んで  吉岡彌生

先日は「花の香楽会」の鷲山先生の情緒溢れる住まいを垣間見ることができました。

鷲山家は旧城東郡は土方、「私の好きな城」高天神城址の足元にあります。

鷲山先生は鷲山家の15代当主となりますが酒造業9代三郎右衛門から分家し醤油業を興した三郎助の家系は医者を多く輩出しています。

鷲山医院がその流れですが(場所はここ)、三郎助の一人娘久(ひさ)に医術の道を歩んだ鷲山養斎を迎えその子たち二男が医者となりました。久が亡くなって後妻として入ったのが「彌生」の母「みせ」で相良の黒子の松浦家の出です

 

 「彌生」は明治四年弥生三月生れ。

弥生(暦)とは「いよいよ(弥々)生ふ(おう)」で植物の繁茂の息吹きの活発であることをいいます。元気で活発な女の子らしい名前ですね。以前は良く見た名ですが、最近はその手の名は皆無です。

 

 兄たちの影響といえばそれまでですが、「女は婚姻の修行・・・裁縫と家事をしてればいい」という強烈な男尊女卑の時代に独立志向を抱いて上京し、勉学に励み21歳の時に日本で27人目となる「女医」、医師免許を取得しました。

東京に出てドイツ語を勉強、女子の為の医術を標榜し現在の東京女子医科大学の前身となる医学学校を設立した人です。

余談ですが鷲山先生の専攻が独文学、独思想ですから系統がそちらに収まってしまうのも不思議なことです。

 

吉岡(鷲山)彌生が子供の頃に遊んだといわれる高天神城のお向かいにある広大な敷地がその東京女子医科大の大東キャンパスです。大学のある町の雰囲気はいいですね。

交通の便が悪そうで心配してしまいますが・・・。

前を通る道を少し行けば「六砦」の一つ、能ケ坂砦址があります。

 

大学の正門の右側に吉岡彌生記念館があります。

彼女の生家が移築され昔の儘にキレイに管理されています。

画像①②が記念館背後から高天神を撮った図。

③が学校の正門。④~⑧が吉岡彌生生家、旧鷲山医院。

①の図の山の直近の家々の並びに鷲山家本家、医院があります。

下が現在の鷲山医院。