菊川下平川 牛渕川 堤城 松井信薫の城

午後6時代には台風は通過。通過後の外気の蒸し暑さは台風が連れて来たものでしょう。雨の量は前週以上を感じました。

菊川の横地や下平川に避難準備が出ていましたがあそこいらは案外地盤が低くて、水が捌けにくい地形になっているようです。

そして牛渕川が一時氾濫危険水位を超えたという報がでていたよう。

 

5時を回ってブレーカーが落ちましたので各部屋をチェック。

一部屋のブレーカーが上がりません。どこかに漏電があるようです。また面倒な問題が発生してうんざりです。

 

昨日は前婦人部三人衆の一人、千代さんについてたまたま記しましたが昨晩そのうちの一人のやゑさんが亡くなったとの知らせを受けました。九十三才でした。

私がこちらに入った頃(11年前)はまだまだバリバリの健康状態、お得意のバイクを乗り回すほどで、周囲は「100才は固い」と囃していましたが、その壁の高さを改めて知ることになりました。

低気圧の接近が心肺不安のある年配者にとってケアすべき事であったとも感じたところ。

 

これでしずさん、千代さん、やゑさんの旧大澤寺婦人部の大御所がすべて逝去したことになります。

御三名には長い間ご苦労をおかけしました。あらためて感謝御礼申し上げます。

 

さて牛渕川は菊川水系で黒田代官屋敷のところで記しましたが水害の多い場所であったことは大いに推測されるところ。

この地域には横地城・高天神城と舌状台地上に比較的名のある城がありますがちょうど両城の中間地点、水の手の悪そうな場所に両城にも劣らぬ通好みの城があります。

「牛渕」の名を耳にすると長篠城の牛渕橋を思いますが、城に「牛」がつきもの?というよりも人との関わりという点で馬と牛に関してより深い縁を感じます。

それでも人は馬には敬意を払う傾向がありますが、牛だとどうしても家畜・・・

 

それが堤城。幹線道路の目の前にあって地元の方々にとっては当たり前のような地名でもあります。

これまで確か一度もこの城について記していなかったと思いますが一時期は週一でこの前の道路を通過しているほど親しみ深い城です(場所はこちら)。眼前の街道の南の先には新野の城砦群を控え、東方からは「塩の道」が合流するという要衝の地。

 

さすがに牛渕川の氾濫にそなえて比高36m程度の台地に構築されていますが、その西北を北から街道と平行して流れる牛渕川は天然の堀として想定できる立地になります。

「堤」の名の通り、川の土手の城という地形の様を名にしたのでしょうか。尚、近隣には「堤」という地名、バス停があります。

 

堤城は築城年代がハッキリしないということと小和田先生による今川氏の家臣団構成「寄親寄子制」の教科書的代表例である松井氏がいつ頃入っていたのか、松井氏が在地領主からの今川編入とするとそれ以前の相良・横地・勝間田・新野あたりとの関わりはどうだったかなど疑問が残ってハッキリしないところが多々あります。推測としてはそれらと同様に藤原南家出身と考えればスンナリでしょうか(その辺りは明日のブログにて)・・・。

 

また華々しい戦闘の形跡がないことも歴史上ひっそりと消えていきつつある城なのかも知れませんね。

 

小笠郡誌(城郭大系)

「堤の城墟 平田村城山古へ之を堤の城と云う。伝へ云ふ今川氏親の臣松井左衛門尉信薫此城を守れりと。

永正十一年信薫二俣の城に移る。記伝に云ふ、堤の古城蹟在上平川下平川二村の間。」

 

城は二郭、画像にある西側の単独の丘と大堀切状に区切られた東側の台地とセットです。

出張った街道から西の単独丘を見上げる位置は松井氏館があった場所と推測されています。

 

車両で向かうには城山霊園に停めて散策を。

もっとも本曲輪は塩の道の真上の丘ですので、こちらへは冬場がお薦めですね。

 

本日はこれまで気が向くままに撮影してきた西側の川沿いの丘の画像、特に街道から見た少々をアップしてみます。