信康への悔恨の痕跡はこちらでも 萬松院五輪塔

午前中の境内では「今朝は暖かくて気持ちがイイですね」などの挨拶が交わされていましたが2時を過ぎたあたりから急激に温度が低下して尚、例の遠州の空っ風が吹き出して、19時頃となると庫裏北側の洗濯部屋の屋根が吹っ飛びそう、不安を感じたほどでした。

 

拙寺奥方はちょうど3か月前に亡くなった叔母の家の片付けに向かってしまい、2日間の家の始末は私の役。

こんな日は風呂に入るのもゆっくりお湯に浸かってのんびりしている気分になれませんね。

私の強風のイメージといえば火事です。昨年も丁度今頃、相良では大きな火事が連続して発生していますね。

火事と言えばアメリカの山火事は凄いの一言。あのお国は山火事までスケールの大きさが違います。

どこまで広がるのか・・・ここでも人智を超えた恐怖がありました。

 

午後は東京から朝日新聞社の方が見えました。

奥方不在でお茶出しできないものですから、私が代わりに。

一人二役は結構手間がかかります。

お話の内容は大晦日の鐘撞きについてでしたがお帰りの際つい、国連(ニューヨーク)に詰めていた野村彰男氏についてご存知かどうか伺ったところ「野村先輩とはニューヨークの事務所で一緒だった」と。めぐり合わせというか点と点は結構つながるものだと思った次第です。

たまたまその方も御実家が真宗大谷派ということで私の余計な話にも付き合っていただきました。いい御縁を戴いたものです。

 

さて、先日記した榊原清康の悔恨、江尻江浄寺と同様、東海道でも小田原風祭の地、萬松院にもひっそりと松平(岡崎)信康の五輪塔が立っています(場所はこちら)。

先日記した風祭一里塚から北に登った方向になります。

道は広くないですが、自動車でも十分上がることができます。

 

地の信康供養塔は江浄寺の境内本堂前にさりげなく・・・というカタチでしなく築地塀で結界した廟形式の墓域となっています。

こちらは小田原に入った大久保忠世が信康の菩提を弔うために文禄元年(1592)に建てたといわれます。

信康自刃が天正七年(1579)、忠世が小田原に入ったのが天正十八年(1590)、そして忠世が亡くなったのが文禄三年(1594)。

二俣城主としてあった大久保忠世が小田原での栄華を得て亡くなる2年前に建てた五輪塔。

そこのところだけは彼の気が収まらなかったのでしょう。

 

きっと信康のまつわる何か弔いの対象としてこちらを建立しその目でしっかりと確認後に(安心して)亡くなったということですね。

 

大久寺の大久保家の石塔とこちら萬松院の信康五輪塔は明らかに違いますね。依頼した石工が違ったのか何なのか・・・わかりません。

信康の五輪塔は風輪と空輪が図太くデカイ。特に風輪にインパクトが。

境内の無縁墓の並ぶ一画にはその五輪塔に似たミニチュア版がありました。

はたしてパーツ取りなのかオリジナルなのか判断不可。

最後の画像2つが石垣山(秀吉の一夜城方向)。その谷あいに右から左に早川が流れ東海道が走ります。

信康の墓、各所ある中あまり表に出ていないよう感じます。