磐田の加茂十三重塔 平野家も今川→徳川で代官職

世の中には道徳もへったくりもないまともではない人がいますが、「ムカついたから」の理由で高速道路を追いかけまわされて挙句死に至らしめられるなど、いやはやバカバカしいことですしたまったものではありませんね。

 

現場に関して、私もよく通過する場所でだいたいの想像がつきます。

気持ちとしては東京から1時間弱、それまでの混雑気味の厚木インターまでを過ぎて「さぁ、ぶっ飛ばして帰るぞ」と調子に乗ってくる場所ですね。その先の下り二流分岐直前の場所で右側コースが癖になっている人は追い越し車線をキープするはずです。

私は中井のSAは余程の事がない限り立ち寄りませんが事の発端はそちらで起こったようですね。

 

「注意されて激昂」して人を殺人に近いカタチで死に至らしめたのですから大人として責任はとっていただかなくては・・・。

しかし、他者に向かって「一言申すこと」がこれほどリスキーなことに直結するのでしたら「君子危うきに近寄らず」(無視して関わらない)が正解なのでしょうか。嫌な時代です。

昔は「知らざあ 言って聞かせやしょう・・・」てなことになれば一応は年長者の言には耳を貸すものですがねぇ。

今一度「承認対話共存共栄助け合い」の精神を。

 

いちいち言うのもおこがましいが・・・。

まともじゃないこと、己本位のことばかり。

世間の幅を利かせてます。

くだらん言葉を流行らせた、トランプ殿もアホですが、

それを物真似、使ってみたり、そのものズバリ「モリとカケ」、

日本全国「自分ファースト」 バカバカしくて仕方なし。

 

さて先日は岡崎の笠原を記しました。

あの時は姓について少々記しましたが地名としては荘園の名「笠原荘」からですね。牧之原の「牧」と同様、主に馬を飼育して中央に供給する地だったようです。

そして浅羽は茶の供給地でもあったそうで、そうなると県下茶の生産地としてありますが、こちらの茶は歴史的に見てもかなり古いということが言えましょう。

 

しかしまぁ中央の有力貴族、皇族、大寺社の「所有権」がこの辺境の地にまで及んでいたことは驚きです。まぁそのことから代理人として派遣された者もしくは在地領主たちが、今でいう「自分ファースト」「われこそが」の精神が芽生えて、「歴史」を構成していったことがわかります。

あらためて歴史とは「自分本位」という人間の性が交錯しているものと考えます。

 

それらとは別に遠州には「加茂」なる地名を見る事ができます静岡県では伊豆の「賀茂郡」を思いおこしますがそれは全国的に見られる郡名でもあります・・・)。

 

御前崎の比木には賀茂神社がありますし、菊川や磐田にも「加茂」の地名がありますね。

これは中央(京都)の神社実力者の系統が「所有権」(荘園)を主張してそう呼ばせたことが発祥と思われます。

 

上記「笠原荘」の所有者の変遷があったようですが鎌倉時代には「賀茂斎院」の名が出ているとのこと。

 

本日は磐田の「加茂」。場所としては匂坂城の南、一言坂との中間地点、天竜川東岸河岸段丘の下方になります。

昨日は代官職を世襲した秋鹿(あいか)氏を記しましたがこの地の代官職は平野氏。

この平野氏は美濃国安八郡平野荘にあったといわれていますが

移住した理由が「織田と斎藤による戦乱」を嫌ったとのこと。

当地では今川義元に従って義元が滅したあとは家康という流れは秋鹿と同様です。

 

加茂東交差点脇にごく新しい十三重塔が建っています(場所は

こちらまたはこちら)。

これは天竜川の治水と農地開発(・・・「寺谷用水」)のために天正時代から明治大正にいたるまで尽力した人々を顕彰するものですが、その天正期の「治水」活動のさきがけとなったのが平野家でした。

塔と道路の間に水路がありました。