「過ぎたるもの二つ」の発祥 一言坂

最近はブランド米がドンドン増えて、聞いた事も無いような米の名前がスーパー等店頭に並んでいます。

以前無理矢理食べさせられた感のある、タイ米とやらの触感でなければ、うまいかまずいか、焚き方が固いか柔いか等々私はそれほど気にせずに戴いておりますので、選択は今のところこだわり無くどうでもイイという感じ。

しかしタイ米の味だけは慣れることはできませんでした。

 

お米屋さんでもそのブームなのか、現状仕入先を変更するなどの端境期なのか、仕入を薄くしている感。

プロの世界となればなかなかたくさんのブランド米から数点の「当り」を抽出することになることは必至、難儀するでしょうね。静岡県は稲作よりも茶業の地ですので、消費は殆どが他県のものですし。

 

一昨日ですが、磐田の浜松との境に近い地に所用で向かいました。

其の地には何故かまだ刈りいれされていない田がありました。天気は秋晴れ、陽気もボカボカでうまい空気をとしばし車を停めて観察。

そして「コレって米だよね?」と同乗者に聞く始末。

10月も半ばにこのような風景もあるのかと少々首を傾げましたがやはり品種の違いなのでしょう。

 

この田園風景の北側には今は住宅地となっている丘陵部(河岸段丘)から磐田と浜松の境界線の大河、天竜川の削った平坦地に降りる坂道があります。

丁度、東海道、国道1号線から脇(北側)に反れた辺りですが、国道1号線脇にはかつてそちらで戦われた戦闘の石碑が建っています(場所はここ)。

 

一言坂の戦いは三方ケ原の一連の前哨戦の一つですが、徳川軍敗走戦ですね。本隊に天竜川を渡河させ無事に浜松城へ帰還させるための「殿―しんがり―戦」。

「私がやります」とドラマでは色々な人が手を挙げる場面を見ますが、通常「殿役」の目的は負け戦で「本体-殿 お屋形さま-を逃がす」ことのみ。

それを見届けるまでは戦い続けるというのが使命です。

目途がたった段階で本隊を追いますが、あとは運を天に・・・の状況でしょう。

 

よって「殿役は憤死」というのがイメージです。

武田本隊2.5万~3万と聞きますから、その圧力といったら相当のものでしょう。家康の本隊といっても3000程度のものが出張っていたにすぎなかったと思います。その「殿」ですと200~300程度あるいはそれも無かったかもしれませんね。

 

その徳川軍最後尾に残ったのが、本多平八郎忠勝とのちに三枚橋城に入った大久保忠佐(ただすけ)です。

以前ブログで記しました三ケ野から一気の逃げ足だったのでした。戦闘は逃げれば押されることは必定、軍勢の背後ほど脆弱性を曝すものはありません。

渡河に手間取る隊列を襲うというのもまた戦いの常套、大勝のチャンスでもあります。

武田軍も一気に追い込みをかけてこの坂の下で戦闘が繰り広げられました。

 

殿隊は一言坂という地に。

一見東海道から反れてさらに低地へ移動転回するのは不利なのでは・・・と思いますが、コレは忠勝ら殿の使命でしょう。

東海道を浜松へ落ちる本隊の最後尾、殿隊は方向を横に振って、家康本隊後方に取り付こうとした武田軍先鋒の馬場信春隊の横を突こうという意図があったのでしょう。

しかし馬場信春としてはその意図は察して、本多隊に直行しているようです。

 

有り余る軍勢の武田軍は本体追撃を諦めたか、本多隊を挟撃しようと天竜川沿いまで出て本多隊を囲い込んでしまいます。

ここで後世何かと語られる「過ぎたるもの二つ」の1番、小杉左近の

「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」です。

そののちに囃された②の石田三成バージョン(「島の左近に佐和山の城」)もありました。

 

小杉左近は武田方武将で、包囲網を本多隊の背後に廻りこんだ人ですが、中央突破を図ろうと突進してきた忠勝隊に道を開けて見送ったといいます。

十に一つも勝ち目のない相手に対する「情け」によって命拾いしたと思いがちになりますが、死を覚悟した者の「死にもの狂い」ほど手の付けられないという事を知ってのことだったこともありましょう。

 

それ以前にも「本」の旗差と馬上の「トンボ切」の奮戦を見ていたことでしょうし。

戦国時代劇で多勢が無勢の突破に道を開けるシーンを見受けますが原点はここでしょうね。小杉左近の粋も感じるところでした。

 

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コメント: 2
  • #1

    クリクリ (木曜日, 15 10月 2015 11:17)

    静岡の米作りについて
    生産量こそ多くないですが、米作りの歴史はたいしたものだと思っているのです。
    好きな言葉は「浅羽1万石」ですね。人々の心意気が伝わる言葉で、150号線沿線の穀倉地帯はやはり壮観です。
    それから、小河川の菊川が1級河川の理由で、水害被害が大きいかったというよりは、下流域の水田開発に大きな期待がかかっていたということですかね。戦争中も工事費用が計上され続けたなんてすごいと思うわけです。

  • #2

    今井一光 (木曜日, 15 10月 2015 19:56)

    ありがとうございます。
    米どころ『浅羽一万石』についても検索してみました。
    遠州の穀倉地帯、私も応援したくなりました。
    農業の灯を消さないよう頑張っていただきたいと思います
    また、土井酒造から開運の「あさば一万石」 純米吟醸 というお酒があるのを知りました。
    「高天神」も含めて、私は人に「味見」と差し出すだけですが、面白いお酒の名ですので
    こんど友人に試してもらおうと思います。