金ヶ崎 信長逃亡の論拠 尊良親王の件アリ

あのあまりにもショッキングな画像(東名高速新城SA付近の事故)の追加報道は各テレビ局は続けて流されていますね。

原因を考察するには、何故にしてあの乗用車が飛行機のように「離陸」したかということにつきます。

中央分離帯の構造の問題は確実で対策について早急に着手していただきたいところではありますが、何故ノーブレーキでハンドルを急激に右に切ったかというところが疑問です。

 

丁度あの辺りは新城SAから出た車両が左側から合流する緩やかな右カーブです。

結構スピード高めでも進入できるカーブで、もし左側から強引に車線に入って来ようとした車があったとしたら・・・なんてことを考えてしまいます。

高速道路の使用が頻繁で、それを欠かす事はまずありえない私ですが、走行車線と追い越し車線では後者がいかにリスキーかがわかりました。今後できるだけ走行車線を走るよう心掛けたいと思います。

 

そもそも法令上は追い越し車線の利用は追い越し時のみですしね。車線走行違反で切符を切られます。

そのことにより最近「流行り」の逆走事案にも対応可能ですし。

ただし事故の遭遇はすべてタイミング、人はひとえに「運」といいますが、そればっかりは避けようにも避けられないということも往々にあります。

とにかく「安全第一」は肝に命じなくては。

 

さて、先日はたまたま見た番組から思い出したように信長の脱兎の如くの逃走劇―「金ヶ崎の退き口」を思い出しました。

まぁ信長のひらめき」「九死に一生の逃避行」との感覚で後世伝えられている事件でした。

これは信長の判断力のすばらしさ(力量)と思われがちですが、あの判断~折角奪った城を捨てて逃走~には「前例の存在とその同じ轍」が頭をよぎったからに違いありません。

 

要は①城にこだわって籠城し、朝倉・浅井軍の包囲に耐えるのかそれとも②陣払いしてとにかく逃げるかの選択だと思いますが、結果的に②を選択したことがこの「金ヶ崎」のポイントとなります。過去にこの城で①を選択して滅した者たちが居たのでした。そういう彼なりの歴史的評価があっての成功譚となったのです。

①を即断して「尻尾を巻いて逃げた」などのありうる世間の評価などは無視してひたすら「安全第一」にハンドルを切ったのが信長でした。

私は信長憎しでずっと通していますが彼の歴史を知って自分の生を得たというこの判断には一本取られた感があります。

 

その信長が金ヶ崎の籠城に勝ち目がないとの判断は①兵糧の搬入の難しさ②それにより陥落した歴史を城が抱えているというところです。

話は飛びますが、経営者が事業を始めたり拡大する場合、新天地を事業用に求めることになりますが、倒産したり銀行に差し押さえされたりした場所は「縁起でもない!!」と敬遠すると聞きます。それと同様に信長も前例と同じ轍は踏みたくなかったのでしょうね。

 

②の陥落した歴史とは、前例としてはあまりにも有名な事案でした。それが新田義貞の長子新田義顕と後醍醐天皇の子尊良親王の籠城戦です。金ヶ崎は断崖絶壁に立つ難攻不落ともいえる城でしたが、それだけに兵糧攻めには弱いという弱点があります。

人数を揃えた籠城戦となれば、兵糧の欠乏に至る事は必定。

信長としては前線が伸びきったこの地での籠城は兵糧入れなどは期待できず城にこだわることは死を意味することが分かっていたのでした。

歴史のお勉強はいつの時代でも大切ですね。

 

尚、この金ヶ崎の戦いは南北朝動乱期の前哨戦ともいえる戦いでしたが尊良親王については各お調べいただければと思います。あの井伊谷の宗良親王(またはこちら)の同腹の兄です。

なお、彼らの「良」の字の読み方は未だ2説あって「よし・なが」両立併記になっています。

 

最後の画像は秋葉神社のお札。

先日ブログで記しましたように「火防守護」の文字があります。当家にも町内会からの配布がありました。