陸奥へ向かって船出した宗良親王ら一行の船は、嵐によって散々に難破し、てんてんばらばらになって遠州灘に上陸したということは井伊谷のところで記しました。
ところが上陸地推定地諸処ある中、御前崎の「白羽」がそうだという伝承があります。
「遠江しろわの湊」との記述があって本説の方はより井伊谷に近い、天竜川近くの白羽です。他に磐田にもその名があるそうですね。「白羽」は大きい部落名で現地は「白砂」です。
まぁ普通に考えれば近場(天竜)の方が落ち着くところで、何分遠州ではあっても奥浜名湖からは遠隔地である御前崎説は不利になります。
しかしよく考えてみると、この地名は「御前」でした。
後醍醐天皇の皇子である宗良親王ですから、上陸ではなくて御上陸、そして海に出張った崎がその場所で「御前崎」といえば説得力があるかも知れません。
その他、当然に後世の「こじ付け」の可能性もありますが、2点ほど御前崎白羽説を後押しさせる件があります。
①皇子が上陸後、近くの家を仮住まいとした家があり其の地を
「借宿」と呼ぶ
②皇子の居た場所は公儀(朝廷)の土地となったので「こうぎや
ま」と呼ぶ(あるいは難破遭難の死者に手向けた「香華」(こ
うげ)が元であるという説)
などですね。
いづれにしろ、歴史的登場人物が『「私の町」を訪れていた』というようなことは一つのステータスで、後世になって確証が無くて、似たような事案が類推できるとすれば、われもわれもと、「本当はここ」と立候補するものですね。
また、こちらの近くには井伊家に深く関わった新野左馬助親矩の城もあることですし・・・。
話がぶっ飛びますが、「われもわれも」や「自分こそヒーローに」という「積極的自己顕示」はまったくに否定すべきものではありませんが、いざ絶対的に勝たねばならない勝負~戦(いくさ)に挑んだ場合、それも軍団や体系、システムを重視する戦闘では往往にしてその強すぎる精神力というものはむしろ敗因となる場合がありますね。
極端な例ですが、大坂夏の陣の「夜討ちの大将」「言い触らし団右衛門」(司馬遼太郎)でお馴染みの塙団右衛門(塙直之)を思い出します。
彼が一説に横須賀衆(大須賀康高配下)であったという思い入れもありますが、あのハチャメチャさというか強烈な自己主張には嫌味を通り越して爽快さをも感じます。
夏の陣では豊臣方に付いて樫井(かしい)の戦い―紀伊方面―に兵力を任されて出陣しますが、大坂城から遠く離れておびき出され尚且つ、友軍武将(駿河の岡部則綱)と一番槍の手柄を争った挙句、戦線を伸び切らせて、友軍が付いて来れないような単騎の状態となって討取られてしまいます。
いやはや先陣争いもここまでくれば失笑となってしまいます。
とにかくチームプレーとは程遠いモノがあったわけですね。
昨日のサッカーアジアカップの敗退を見て、っことを少々。
PK戦はコイントスと同様のものですからその負けはどうでもイイことですが、外した二人が海外有力クラブに在籍するお二人でしたね。
ミラン、ホンダ氏の「自己顕示」については日本人として見倣うべき点ありますが、実は本当のストライカーとしての実力としてはまだまだというところは誰もが思うところ。
要はC.ロナウドやメッシ、ネイマールには到底及んでいないのです。下世話な表現で云えば「神」にはなりきれないということでしょうか。
そうなると彼のその背中を見て後輩たちの思うことは「自分でもできる」なのです。よってこぞってそれを真似しようとします。それに倣うということは皆が皆「一番槍(得点)の栄誉をゲットする」ということになってしまいます。もはや病魔の伝染の如くです。
前線に並ぶそれぞれが皆一番槍を狙う姿こそ、「言い触らし・・・」であって、詰まる所「チームプレーでは無い」ということになります。
以前から詰めが甘い、点が取れないと揶揄される日本代表です。中央でのパス回し好きな日本のサッカーにつまらなさを感じていましたが、彼を見ていて一番に気になるのは、ゴールより遠い前線のタッチライン付近でボールを得た場合、必ずといって中央(ゴール正面)にドリブルで切りこみます。
どんなにサイドが空いていてもそちらには走らず、オーバーラップした人間がそのスペースに走り込んだとしてもパスを出しません。
極端なことを言えば相手ゴールに向かうのではなくコーナーに向かえと私は想うのですが、そちらからマイナスのセンタリングを転がされることがどれだけ相手にとって嫌な事か。
全員が戻って守備する相手に中央突破を試みるというのはあまりにも愚かというか、それもワンパターンで相手にも読まれている感がありました。
自分が走るスペースがあっても誰かが走り出していてもそのスペースを生かさないというのは、ただただ自分がフィニッシュにからみたい、うまくいけば「自分が」直接ゴールしたいという「一番槍の心理」でしょうね。
私は彼独りだけがそうであったとしてもその主体性、積極性はいいとは思うのですが、問題は「神ほどの実力者でもないがカリスマ性のある彼」の如くのサッカー(・・・一番槍)を若い衆が皆が皆で追随しようとしているところですね。
サッカーはチームプレーであり、長友氏の如くチームに献身的に走って「お膳立て」「裏方」という姿勢が大切なのです。
それはタッチラインのスペースを思いっきりフルに使用するということなのですがねぇ。
中央でのパス回しで「崩すサッカー」というものは実は省エネサッカーなのです。ブラジルやスペインならまだしも・・・
これはゴールも中々生まれないし、サッカーのスケールも小さく、見ている方も苛々するだけでつまらないですね。
何よりもしっかりマスコミ等が現状を批判することが大事だと思います。つまらないサッカーをしてそれ以上につまらないPK戦頼みの全員守備のチームに「負けました」では進歩がまったくありません。
監督更迭の理由が出来てサッカー協会はむしろ安堵しているかも知れませんが。今回の監督の采配は悪くなかったですね。
決定的シュートを3発も外した選手をまず最初に引っ込めて、監督の意図を知らしめたこと、早々に交代枠すべてを使って点を取りに行ったこと、これまでの監督には無かった采配でした。
少々怒りにまかせて記してしまいましたがスッキリしました。
①は「借宿」の地(場所はここ)、普通の民家の敷地に看板が立っています。
②は白羽の白砂というバス停前。西の井伊谷の方向ですが40㎞以上あります。
③は塙団右衛門の図。「自分は凄い」と吹聴するということは実は敗者と屈辱の経験がベースにあるともいいます(塙団右衛門の場合は奉公構でした)。
イスラム国家による人質事件の発端になった人が軍事顧問の会社を設立して砂漠で鉄砲を撃っていたシーンや、「19歳の万引きの神」の報道を拝見しましたが、そこにも何かそのような人間の歪んだ心理を垣間見たような気がします。
たまたま人を殺す武器に興味がいって現場が戦場であったということか、窃盗することに有意義を感じ、現場がコンビニやスーパーであったかの違いですね。
人間一人一人、どこかしらに突出した個人主義や利己主義というものが芽生える土壌を持っています。方向としてはどうやって皆と協調して生かさせていただくという精神を持つかでしょうね。
「私は裏方に徹する。ただしゴールが見えたら打つ」という精神が皆に浸透し試合に臨めればきっとイイところに向かいそうな気がします。
サッカーだけでなく何でもですね。いつも記していますが「人の為、チームの為」の物言いは胡散臭いので、
「チームへ献身的」が恰好イイかも。
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