当時仏式は当たり前 天台座主宗良親王

「元弘」の件では後醍醐天皇の檄によって笠置山に籠城奮戦した、足助次郎重範は六条河原の露と消えました。

重範の娘の滝野と関白二条良基の間に生まれたのが足助成瀬家の祖、成瀬基久でしたが宗良親王(むねなが・むねよし)の母方も二条家の人。

二条家といえば歌人の輩出で知られていますので親王もたくさんの歌を詠んでいますね。

 親王は一時的にしろ征夷大将軍にまでなっている人ですが、私が思うに室町期の戦国武将まで、連歌というお遊びをフツーに嗜むことが多く、当時の権威者たちの多芸ぶりには驚かされますね。

 

もともとは天台座主ですから日本国立大学の学長兼仏教界のトップに立つ人でしたが元弘の時は幕府方に捕縛されて讃岐に配流になりました。

後醍醐天皇の建武の新政が成功すると再び天台座主、新政が頓挫して南北朝に入れば再び倒幕活動と平和時は坊さん、戦時は将軍とめまぐるしく目的を変えて「仕事」に駆けずり回った人でした。 

 

二宮神社の由緒にておしらせした通り親王の船は浜名湖周辺で座礁したことを縁に井伊谷に身を投じて井伊家をスポンサーに付けました。

井伊三岳城にはいり北朝方と戦いましたが落城させられて落ち伸び駿河・越後・信州等を転々としましたが、信州大河原という地(信濃宮)でその後三十年余をすごしたのち井伊谷に戻って没したそうです。

よって井伊家の菩提寺である駿河龍潭寺が宗良親王の菩提寺でもあります。

当初は親王の法名(冷湛寺殿)から冷湛寺と呼ばれていたとのこと。龍潭寺(りょうたんじ)。

親王の位牌は井伊直弼が作ったものです。

皇室ということで今は墓所は別管理ですが、当時は仏教教義にのっとった葬儀、仏式での法要が当然のことでした。

変な難癖が付きだしたのは江戸末期から明治以降のことでした。