うさぎ繋がりでいうと・・・宇治神社

拙寺の「春の法要と寺楽市」は未練が残りましたが何とか終了。一同、「天気予報、ウソつきやがって!!・・・」と傘は要らないながらの小雨を恨めしそうに見やっていました。

まぁエイプリルフールにつきご容赦という感じでしたが、昨日のブログで「雨上がりの・・・」との楽観を独断したせいかもしれません。

あまりそのような天気は見たこともありませんが、朝から夕までずっと同じように続いたぐずぐず状態は結構なストレスでしたね。

 

また、「こんなに寒いとは・・・」とボヤきたくもなるような気温となって本堂ではストーブがフル回転。皆さん方は外にいるよりはと本堂内のストーブの前で暖をとっていました。

春の法要は新生児のお念珠の授与式がありますので、赤ちゃん連れのお母さんたちも多く、大いに気の毒で恐縮な思いがした法要でした。

 

さて、昨日は拙寺の「見返りうさぎ」について記しました。

そしてその前に岡崎別院のお隣にある、「子宝」の神様を祀った岡崎神社についてさらっと記しましたがこちらは「うさぎ」にご縁のある神社でした。

 

私はこと神社に関してのあれこれは、興味の外にありまして、まったくもって不明で、このうさぎ=安産・多産=家系繁栄という縁起モノとしての構図はわかりますが、主役として表に出してアピールするという意味が今一つわかりません。

今一つ地味に感じてしまう小動物なのですね。

植物連鎖の喰う―喰われる世界では比較的「喰われる」=「負け」のイメージもありますし、武将たちの中でこのうさぎをあしらった兜を着けるその趣向も疑問に感じてしまいます。ただし「於莵」など「莵」の方の「うさぎ」を使用すると「トラ」の意味にもなるというのが漢字の不思議。

武将たちの兜のうさぎはトラのつもり?

「喰う―喰われる」の真逆とも思える関係であり、まったくよくわかりませんね。

 

最近のペットブームからうさぎが仏間をのし歩く様子も拝見させていただいていますが、やはりそれはあの草食系の無害感と感触の良さそして可愛さにあるのでしょうね。

邪推ですが、この「かわいい」うさぎは各グッズ製作にはもってこいということからその手の方向からのアピールかも知れません。トラの方のイメージを消してうさぎの可愛さ一本で勝負しているのでしょうね。

 

各地神社の中まで興味深く歩き回ることはありませんので詳細不明ですが―大抵は墓石がないため・・・これは神社が「死」をケガレとの意味付けから?―うさぎグッズが並んでいるという神社があります。

 

そちらが「宇治神社」。

平等院側から橋を渡って浮島、そしてその対岸へ渡った場所にあります(場所はこちら)。

あの辺りを通行していると「莵道稚郎皇子」(槙島城の対岸辺りにその墓があります)や「莵道」の名が散見できますが。

この皇子の名「莵道」が「うじ」で宇治の語源になった感。

その「莵道」が祀られているのが宇治神社。

そのものズバリで読めば「莵」はうさぎです。

 

そもそも日本書紀の記述(神話の世界)ですからほとんどアテになりませんが一応はそのストーリーはあります。

美談として義兄の仁徳天皇に皇位を譲るために自死したというお話でした。

歴史的に見てその手のパターンはまずありえない話であってここでもまずまともに信じる事はできませんね。

 

諸説ありますが、皇位継承争いの結果、弟を滅ぼしたというのがそのお話のスジ筋道であったことは大いに推測できましょう。

謀殺なのか何なのかわかりませんが、勝者が敗者への罪滅ぼしのために何らかの寺社を建立して「赦しを乞う」ことも歴史の中で見られることです。

本殿近くでは「見返りうさぎ」の人形が販売されているようです。

「見返り」とは権力者による「斡旋収賄」の如くの「見返り」ではなくて、「歩いた道を振り返って今一度見て見ろ」の意でしょうか?

 

いわゆる「反省しなさい」を解しますがやっぱり弟は兄に対して何らかの策を練るなり、謀を巡らした結果だったのでしょうか?

 

ちなみに仁徳天皇は弟のうさぎに対して小鳥の鷦鷯(しょうりょう)でした。③鳥居脇の大木には「兎楽の樹」との記が。

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コメント: 2
  • #1

    がつお (日曜日, 02 4月 2017 20:22)

    初めまして
    「野村直隆 墓」で検索してやってまいりました
    いろいろと記事を読むにつれ何か近しい感じがしてついコメントを書いてみました
    私のご先祖様はきちんとわかっている範囲では江州甲賀の出と言うことになっておりますが、江戸時代の当主が書いたとされる家系図では摂州豊嶋から浅井郡に移り浅井長政の配下であったとなっています。
    その家系図を見ると永正のころと思われるんですが野村肥前守に嫁いだ人がいるとなっていてその子(野村兵庫助)の三男が養子として家系に入ってきているんです。
    そこからどうして甲賀に行ったのかはわからないのですが、きちんと家系で追える初代が家康の伊賀越えを守護したうちの一人で伏見城の戦いで鳥井元忠とともに討死したとされその後青山甲賀組与力として幕末まで江戸にいたそうです。
    さらに、私の高祖父に当たる人は慶応4年に精鋭隊並となり明治に駿遠に移住したうちの一人だそうで場所としては三河とか浜松の方みたいですがその後はお役人になって再び東京に戻ってきたみたいです。
    貴寺院のHPを見ていると浅井郡や野村、そして幕末あたりの話も載っていたりして微妙にすれ違いはあるのですが何となく近しい感じを受けました
    今は先に書いた江戸期の家系図の人について追ってみたいなとは思っているのですが何分古すぎて何から手をつけるのかすら見えていません。
    とりあえずは「野村某」あたりで当時の居住場所等々探して当家のことが何かわからないかと模索しております。
    何か愚痴のような取りとめのない話になりましたがまた機会があればコメントしたいと思います。
    また記事に関係のないコメントですいません。
    では。

  • #2

    今井一光 (日曜日, 02 4月 2017 22:11)

    ありがとうございます。
    古すぎて書物があまり残っていないのは私どもも同じです。
    しかし文書というものはまだまだどちらかに眠っているもので
    いつもアンテナを張ってさえいれば意外なところから意外な情報が転がり込んでくる
    可能性も秘めています。
    点と点がつながったりする醍醐味を味わえるわけですね。
    「明治に駿遠に移住し」の件、牧之原開墾方の石碑、中條景昭や今井信郎と同じ地区の居住者の名の中に「野村教武」「野村数茂」がありますね。浜松三河ではありませんが・・・

    どうぞまたよろしくお願いいたします。