一姫二太郎は勝手すぎの伝    華陽院 市姫の墓

二日目の焼津行脚、午後から天候は急変。

朝方は晴れていましたが(ただし富士山は見えず)みるみる暗雲が立ち込めて15時の帰り際ではありましたが、横殴りというべき風雨と化していました。

途中、警備員の方と目の前に見える高草山についての話題になっていましたが、そういえば先日のブログ、多賀SAのところでこの高草山の麓にある石脇城を引き合いに出していました。

 

帰宅して小和田先生のブログをたまたま拝見したら、その石脇城に最近、先生が登城していたことが記されていました。

地元には高草山研究会なるグループがあってその石脇城の竹藪を伐採するなどして登城しやすくまた、遺構を分かりやすく整備したそう。天気のイイ日に久々行ってみたいですね。

 

さて、表記の言葉はよく耳にします。「一富士二鷹・・・」なる縁起のイイ初夢・・・と混同している場合もあるようですが、この「一姫二太郎」の一番と二番の順位は「子供を産むならコレ」の代名詞です。

まぁそれを聞いて「そんな都合よくいくか・・・」と吐き捨てて苦笑するくらいの願望論です。今時の、子供のいない時代、その逆の「一太郎二姫」であろうが、そのどちらか一つであったとしても目出度いことです。順番に「何がイイ」など言っていられる場合ではないくらい子供たちが減っています。

 

昨日記した華陽院の源応尼の墓の隣にはその墓よりも一回り大きな江戸風宝篋印塔が建っています。

そちらが家康が溺愛し、その夭逝(7歳)を嘆いたといわれる市姫の墓です。

家康には子供がたくさんいますが、五女となるその名「市」は信長の妹のお市の方の如く美しさを・・・という願望があったとか。家康66歳と於勝の方30歳の子供です。

末っ子も末っ子、孫であったとしても全然不思議ない年齢です。

それだけに可愛さもひとしおだったのでしょう。

法名は「一照院」と「市」→「一」の変化が見られます。

 

世の中の「無常」は若き者の死を見て特に感じます。

 

最後2枚画像は季節の無常、この辺りの林の主役、杉の変色・・・いよいよ花粉が飛び交いましょう。

 

 

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コメント: 2
  • #1

    野村幸一 (火曜日, 21 2月 2017 04:10)

    系図作成のため作図構成していくと、よく耳にしてはいましたが子供の夭折が本当に多かったのだなと…ある双子が生まれたは良いもののその日に他界。母親は産後の状態が悪かったのでしょうかその3日後に亡くなっていたりします。他にも幼児期に亡くなっている人がたくさんおりましたね。書いてて切なくなってきます。家系図、系統立てた過去帳なのだと思いました。やはり我々の生きる現代に差しかかるとおかしなもので気分が楽になりました。そして感じることは現代に生きる横並びのせいぜい2世代3世代の数は少ないです。祖先の誰1人欠けても存在しないであろうそして無事に生まれ人生色んなことあるにせよここまで生きてこれたと思うと、今を大切にして感謝なければならないと思う今日この頃であります。

  • #2

    今井一光 (火曜日, 21 2月 2017 07:21)

    ありがとうございます。
    迷信的な知識も多々あって衛生面でも難があった家庭内での出産から
    現代の科学的医療、確立された施設と衛生面からの変遷を享受しての飛躍が
    今の私たちが思う「当然」なのですが、仰る通り戦前の過去帳を眺めていれば
    幼き命の件またぞろ出てきます。
    そのたびに親たちご先祖の悲しみが「あった」ということ、たまたま今自身が
    生かされているというその「幸福」を味わうところです。
    そこに本当の「幸せ」が存在し、未知なる快楽を推測する「幸福」の吹聴には
    ヤレヤレです。