寺にとって思いがけぬ災難  4位は・・・ 敏満寺

昨日午後の本堂では世話人会が開催されました。

4月1日の「春の法要と寺楽市」が主たる議題でした。

昨日はその前日の温さとはうって変わって風吹きまくりで体感温度は低下、年配者の多い集まりということもあり恐縮させられました。

 

何しろ外気の冷たさと風の肌当たりは不快、午前中の法事では生まれたての赤子の参加がありましたが、こちらとしても本堂の冷気に気が気ではないくらい。法要後の墓参は「堂内で待機」することを勧めました。

ただし本堂内は以前のような「底冷えを感じて吐息が真っ白」という「最悪」のコンディションからは脱しているようです。

 

さて、先般は駿府建穂寺のところで「寺にとって思いがけぬ災難ベスト3」を記しました。まぁ私が思うところで記しているのではありますが。その3位までが

1位 応仁文明の乱

2位 織田信長

3位 明治維新   でした。

そして本日はその4位を・・・これでしょうね。

4位 道路(高速道路)の建設

         です。

 

道路公団に公共の福祉の旗を振られて「1反15万円で2反を売った」というお話を記しましたが道路敷設の計画が起こると遺跡にとっては不幸なことになりますね。

その「公共の福祉」は日本国憲法にも記されている語で「個人の権利よりも複数の個(社会)の権利が尊重される」という意味合いでよろしいかと思いますが、例えば拙寺の大晦日の鐘つき(「除夕の鐘」)について「うるさい」との「騒音」をより多くの方たちが感じ取った場合などがそれで、この場合「文化」の範疇との兼ね合いはありますが、現状は「社会の優勢」は動かないところでしょうね。

 

「公共の福祉」は耳にはナルホド感は漂いますが、コレは実は旗の振り方によっては個人の権利を大上段に上回る「強権」が潜んでいるのです。

要はそれを個々にかざすことによって「沈黙せよ」の意を含みしばしば個はその言葉に萎縮しています。

 

そして一旦道路が通ることが決まればその「公共の福祉」は大手を振ってその方向を躊躇なく進むことになります。

ヘタに個人が頑なに反対などすれば強制執行になるなどの可能性まで秘めています。

人はそれなりの反論はできますが、遺跡遺構の抵抗力はいたって弱小です。それは本来守るべき管理責任者である自治体等(教育委員会、各文化財保護団体)そのものがそういった公共社会を代弁する組織にあるからですね。

よって余程の論拠が提示できなければ問答無用の世界がそこにあるのだと考えます。

 

極論ですが、「何だかわからないようなつまらない遺構を保護するよりも手っ取り早く儲けよう」という思想が勝つということです。その時代が日本人全体が高慢ちきな金満亡者に変貌して、その心と日本そのものを変えてしまった「日本列島改造論」でしたね。

文化への造詣もあまり深くないあの時代、きっと多くの史跡遺構は消えて行ったことでしょう。かといってそのおかげで今の私たちの利便は格段に向上し、結構に活用している私に文句などを言う資格がないことは十分に承知していますが・・・。

 

実は昨日のブログのおしまいに「遺跡の上にのっかっている高速道路SA」というのは湖東三山(百済寺→金剛輪寺→西明寺)繋がりでそれらの最北にかつてあった敏満寺。その寺には他の三山同様に城郭城塞化していたようで、ちょうどこの多賀SAはその城址の上というシチュエーションとなります。

 

以前、東名高速日本坂トンネル西の石脇城(またはこちら)に向かうには「日本坂SAに車でも置いても可・・・」のようなことを記しましたが、この敏満寺城址に行くには、多賀SAに寄るだけと何の苦労もいりません。

 

画像、遺構らしき土塁と金属製プレートのある場所は「上り」側になります。昨日も記しました陸橋で渡れますので「下り」であっても大した労力はありませんね。

上りのスタバの裏側を覗けば後ろから3つ目の画像の如く大き目の石がゴロっと転がっていました。殆どの石材は流用の為他に持ち出されているよう。

 

敏満寺城についてはこの立派なプレート標識に端的にまとめられていますのでご一読いただければと思いますが、「立派過ぎて読みにくい」というところがミソ。

私には道路公団の罪滅ぼし(体裁としては「発掘調査はしました」ということですが、遺構をぶっ壊してもっと発掘されるであろう遺物たちを闇に葬った)として標識だけでも少々値の張る方法を志向したのではないかと穿って?見てします。

地元自治体はその時「反対の声を」を少しはあげたのだろうか、沈黙させられるために幾らかのカネが動いたのだろうか・・・などなどついつい勘ぐってしまいます。

世の中またぞろそんなことばかりですね。「人が作ったものだから人が壊す」そういうものですか・・・

 

城の主については不詳というのが定説ですが、多賀氏の系となる

久徳(きゅうとく)氏が居たともいわれています。

こちらにはその城址の名の通り「敏満寺」(町名として残るのみ)なるお寺がありましたが、おそらく湖東三山と同等あるいはそれらを凌ぐほどの塔頭寺院があった寺だといいます。

こちらの災難は意外にも当初は浅井長政に攻められて炎上、その後はこの地方の寺の流れでもある織田信長の手による潰滅です。通常なら明治以降に寺院整備がされてもよかったとは思いますが、それがなしえなかったのは明治維新の廃仏毀釈の嵐が吹き荒れたためかもしれません。

 

そして遺構だけでも残していただければありがたいことだったのですが、そのあとの開発(道路工事)によって完膚なきまで一掃されてしまったのがこちら敏満寺と敏満寺城でした。

 

最後の画像は上りSAの京都方面からの図です。

下の航空図も参考にいただければ一目瞭然、城としての立地を想像できる場所ですし、その遺跡崩壊について知ることができます。

 

場所はこちらですが近江平野から立ち上がる鈴鹿山系の裾を走る名神高速道路にとってその山裾に古くから建てられていた寺院や城跡はさぞかし邪魔だったことでしょう。

尚、湖東三山の地図はこちら