和田山城と比し小規模  但し感動の石垣  佐生城

昨晩は春の法要を前に総代会が催されました。

午後6時からの恒例となっていますが、総代のお一人より「なんだか最近、夜目が効かなくなっちゃったので明るいうちに済ませたい」との連絡が。

 

明るいうちの車の運転はバッチリのようですが、日没後ともなればまったく自信が無くなって「怖い」とまで。

その日は奥様にお寺までお連れいただき帰りは私が自宅までお送りしました。「みんな齢を重ねたね」と一同苦笑い。これからの課題ですね。色々な意味で・・・

 

総代会で話になったのは予算的にちょっと突出した雑費の数字(と言っても15000円)について私から切り出したところから。

チェーンソー購入のための上乗せ資金です。

私も木の上にのってそれを振り回すには少々齢を取りすぎていると思い、殆どその使用を諦めていましたが、どうしても不可欠であると判断したのです。

数年前に境内中の槙の木の枝を詰めましたが、唯1本立ち枯れしたものがありました。去年あたりまでは何とか葉がある部分が残って、何とかなるだろうとは期待をしていましたが完璧に枯れたようです。

 

コイツをこのまま放置していればどうなるかといえば、いずれ朽ちて倒れることになります。

こういった負の遺産は私のヤル気が残っているうちに処理しておきたいですからね。

 

そこで木や枝が人に当たれば・・・「それは酷い事になる」という話になりました。

数年前に隣町で区のボランティアでの伐採作業中の死亡事故の件について、伐った木が下で片づけをしている人の頭を直撃したという事例です。そこで・・・

①木枝は小さく見えてもかなり重い②高い位置からの落下で勢いが増す➂ヘルメットは下の作業者こそ必携④下への配慮が不十分⑤落ちた枝がどういう動きをするか未知⑥不思議とよりによって人に目がけて落ちるように当たる

という話になりました。

 

先日も私と相方そして檀家さんの御夫婦で1本、伐採をしましたが木の下で片づけをしていた人は皆ノーヘルメットでした。

これからは「ちゃんと」しなくてはなりませんね。

ヘルメット着用は木の上の私だけでした。まぁ終始デカイ声だけは発していましたが。

 

チェーンソーは今、木の上で取り回しのいい小ぶりのものを、メーカーはリョービか日立かで迷っています。

経験上リョービは使い勝手も信頼性もありますが少々お高い。31000円くらいでしょうか。

日立の品は使ったことがありませんが18000円程度でありますね。以前1万を割る輸入物を購入しましたが1シーズンで使用不能となりました。

安物は使いづらくスグ不調に陥ります。それが木の上での一番のストレスになりますので。

 

さて、城址行脚にも当たりハズレがありますね。

しかしその迷惑我慢(各伴う苦労)に対する果実への期待は膨らみます。

そして何だかよくわからないような藪の中の土塁だの堀切、堅堀の推測などより眼前に現れる石垣に出会った時の感動はひとしおです。

 

それを味わったのが昨日記した五個荘佐生町龕前堂から登る「佐生日吉城」です。

佐生城に関しては観音寺城の支城ということ、観音寺城から尾根伝いに佐生城に連絡していること等、観音寺関係の史料には登場してくる城です。その城址に思いがけず寄せて頂いた幸運に感謝したものです。

 

場所的に復習すれば昨日のブログの地図またはこちらの航空図、観音寺城のある繖山を囲んだピンク色の四角形の右上になります。和田山城のある山塊と挟む東西に走る街道に目を光らせていたような位置となります。

 

その予期せぬ出会いは、本曲輪まで辿り着くに意外に短い距離であったこと。

そして道中行脚がありがちな藪ではなく、どなたかの手が入って(私有地か・・)一部禿山化していて、目標がいたってわかりやすい点、何よりも「最高!!に感動」したのは登り切ったところには石垣が各所に見られる点でした(ただし冬枯れの時期に上がるにこしたことはなし)。

ハッキリ言ってこの城より名の通った和田山城(少なくとも私には・・・)と比して断然素晴らしい城址と思ったものです。

いつかはこの尾根伝いに観音寺城へ迫ってみたいと思ったのでした。

 

本曲輪に建つ「後藤但馬守城址」の碑を拝見して、まず思うにこちらはいつ頃、どなたが建てたものかです。要はその「後藤但馬」という人が居たという信憑性ですね。

一応は江州佐々木南北諸士帳「神崎郡」には「下日吉 葛若後藤」とありますが日吉とはこちらの「佐生」とは微妙に違います(南側の平野部)。現地の城の名称が「佐生日吉城址」とありますし・・・何とも言えません。

 

しかしこちら「後藤」といえば観音寺城六角氏にとっては重臣中の重臣家で但馬守の子の後藤賢豊という人が特に名の知れた武将でした。

 

六角家と言えば、思い浮かぶのが鈎の陣(またはこちら)で逃亡して返り咲いた六角高頼から六角全盛期に仕上げた定頼、舵取りの失敗を重ねて弱体化の流れを招いたその子義賢(承禎)、そしてその坂道を一気に転げ落ちるようなきっかけを作ったのが義賢(承禎)の息子の六角義治でした。

 

その大きな転落の「きっかけ」が「観音寺騒動」と呼ばれる事件で重臣辣腕の後藤賢豊とその息を城内で謀殺してしまいました。背景としてはこちらでも隠居した父の義賢(承禎)と家督相続した義治との確執があったといわれています。

 

親子喧嘩に兄弟喧嘩、よくある話ですがどちらも度を超すとロクなことがありません。特にその家臣団の結束というものが壊れます。昨晩もその手のニュースがお茶の間を賑わしていました(海を隔てたお隣の国の兄弟のお話)。

 

後藤賢豊の「賢」はまず六角義賢の偏諱でしょうし義賢からの信任は強かったと思われます。その「オヤジの意向」をたてにして物言いする家臣、後藤氏を義治が抹殺して我が物顔で振る舞おうとしたのがその騒動の要因というのが通説です。

 

後藤氏の名はその以前にも見られます。

鈎の陣のあと実は六角氏は3度目の観音寺城放棄をしているのですが、3度目は配下の伊庭氏が反乱を起こした際ですね。

4度目が信長来攻でそれを最後に六角氏は観音寺城に戻れていません。

 

結局伊庭氏は江北の浅井氏のもとに逃れますが、六角定頼が江北出陣の留守に乗じて観音寺城を乗っ取ろうと再び城を囲みます。その際の観音寺城留守居役として「後藤三郎左衛門」(寺院雑要抄)の名があるとのこと。

 

観音寺城は定頼の代から巨大城郭へと変貌していくと見るべきですが、その主城の留守を頼むほどの六角家にはなくてはならない家系が後藤氏だったのです。

 

よって繖山周辺に後藤家の足跡が多数あったとしても何等不思議のないことではありますね。

 

⑪⑫の図は佐生城から見た和田山。⑬が箕作山。⑭は繖山観音寺城尾根続きとなります。