佐生町の「しんじょうどばし」と「龕前堂」

昨日は当地殆ど無風。

こちらは降雪皆無といえるほどの地ですが、いわゆる「遠州の空っ風」というヤツがイケませんね。

それさえ無ければそれこそお浄土の気分なのです。

 

午前は島田の初倉方面の仏事に向かいました。

牧之原市須々木からの転居、お内仏開扉式。また一つ牧之原市民減少の現場に立ち会ってしまいました。

往路は150号線から吉田インター前を通過してのコースでしたが帰りは山越えを選択。

やはり信号が少ないせいで、ストレスなく走らすことができました。ただし次に先方に行き着くことができるかはわかりません。この辺りの茶畑山道の通行はまだまだ迷惑、慣れが必要です。

 

あの和田山城の不覚もありましたが徒歩の場合は車とは違った意味で不安度が増しますね。

まぁ車両の場合はそれならではの注意がありますが、少なくとも「道に迷っての命がけ」という状況には陥りません。

何より燃料さえあれば暖はとれますから。

 

昨日、石馬寺参道前からの繖山の図を記しましたが、その道を何ともなく直進すればT字路にぶつかり、右に向えば和田山城に国道8号、左に曲がれば能登川駅に向かうことができます。

昨日はトンネルを抜けてその能登川方向に抜ける場所でした。

それは何より繖山の直下を貫かなければならないからでありますが、こちらはその山の端っこであり、平地になったあたりということになります。

 

そのT字路には道路標識があります。それがちょうど目にはいる辺りに橋があって小さな川が流れていました(場所はこちら)。

瓜生川はその繖山山塊の北側エンドの天然の堀の如く。

左方向走行中の残像立て看板の件もありましたがその橋の名を知りたくて車を停めました。

すると「しんじょうどばし」。これは目出度いと看板には「佐生日吉城址」と。その時偶然に引き合わされたのがこちらでした。

その状況に車など打ち捨ててその小道に引き込まれれば「龕前堂」なる小さなお堂があってその中に六字の名号の石碑がありました。

 

ここでも難解な字面で失礼します。

「佐生町(さそちょう)の龕前堂(がんぜんどう)」ですが、町名は読めなくとも「龕前堂」の「龕」ほかその意を坊さんが知らなかったとすれば「痛い」かも。普通は知らなくて当然、私もかつてはその一人でした。

 

そもそも仏像や経典を収める厨子状のものを「龕」と呼びますが、地方では火葬野焼きの場にその「龕前堂」なるお堂を建てていた例があります。「龕」は「棺」の意味もありますから。

このシチュエーションからいって「昔はこちらは何だった」というのも野暮な話で。

 

そういう場所はひっそりと残しておこうという地区の同意というものがあるのでしょうね。

ちなみに当相良のかつてのそういう場所は今や住宅街。

土地の有効利用という意図もしかり、現在は綺麗に整備された特養が建っています。しかしこの件は私の知りうる限り特異な例です。

叔母さんの子供の頃は拙寺の窓から煙が立ち上っているのが見えたそうで、「ああ誰か亡くなった」と思ったとのこと。

 

お堂周辺は明らかに墓域で新しい墓石もありましたが、私の興味はいつもの通り。

本来こちらにあったとは思えない石仏たちではありますが、

「イイ味」出しています。