地蔵といえば木之本地蔵院のデカさ  時宗浄信寺

糸魚川の火事の件、驚きです。ちょっとした失火がその時の状況によって思わぬ延焼を招いた例ですね。

「なすすべがない」火災とは一昔前にはあったとことは聞きますが、「まさか」の災害としての火の怖さをあらためて知らされました。

「無残」の語に尽き、ただただ畏れおののくばかりです。

最近は当牧之原でも大きな火災が続いて発生し、それに際しての「人の無力」というものを思い知らされています。

 

一年を振り返る季節となりました。

そろそろこの拙ブログもなんやかんやで1500日あまり連続で記したことになります。

ブログ書き始めの頃は不具合も頻出し、そんな時はサーバー管理者に問い合わせることになりましたが、決まって「画像多すぎで重たいから」との回答となって、そのたびに記していたブログを削除していました。

結局は当方のPCの問題であったことがあとから判明し、せっかく記したのに・・・と、少々の残念感があったものです。

 

今回の不具合も管理者さんに何度かヘルプメールをして何とか解消したようではあります。

 

まぁ大した事を記しているワケではありませんのでそれはどうでもいいこととして、とにかく「この4年間は無事に生きていた」ということの実感ができました。

その間、ちょっとした体調不良や超繁忙期を通過し、一応は継続というカタチで過ごすことができたという喜びもありますね。

 

しかしこういうカタチでの継続は「少々怖いな・・・」というものがあって何やらこのブログは私の心肺機能を記すモニターを披露しているようにも感じてきました。

未来永劫に命は続くことはありませんが、人の死というものは有名人以外は案外それを知るにある程度のタイムラグがありますね。訃報の報せを受けたり賀状辞退の報をうけたり・・・です。

 

ところが私の拙ブログは停止=私の心肺停止のように感じられるかも知れません。死=ブログ停止となることは必定ですからね。

その辺りは息子にバトンタッチしたいと思って日ごろ私の心肺停止の件を思い出しては「そのときは(継続を)頼むな・・・」などと言っておりますが、彼の返答はいつも「冗談じゃあない」ですね。ということで継続は不可能としてこのブログは私の生命維持バロメーターとみていただいていいのかも知れません。

 

2、3日ブランクが空いたら「往生」かそれをアップできないような環境に陥っていると思っていただければ・・・。

当流「朝(あした)には紅顔あって、夕(ゆうべ)には白骨となれる身・・・」ですからね。

「まさか」はここそこに転がっていることは間違いないところ。

 

昨日はなんでもかんでも石仏に「地蔵明記」することの違和感をちょこっと記しました。五輪塔はやはり墓石ですからね。

お地蔵さんとは違います。

またあそこには明らかに「墓石」を推する石仏もありましたし・・・地域信仰の対象として親しみ深さが漂うという意味で石仏に敬意を表してそう呼ぶのでしょう。

 

そもそも「地蔵」のイメージは35日(初七日×五)の「閻魔大王」ですし地獄における救済者でもあります。

余計な事を記せば当流では地獄は行く場所ではありませんので地蔵の救済は不要なのでした。

そして私たち宗旨は何でもかんでもオール阿弥陀さん。

常に「如来におまかせ(他力本願 ありのまま)」ですから昔から「一向宗」と呼ばれていたのでしょうね。

 

ところが地蔵信仰の起こりはやはり阿弥陀浄土世界との対比

(浄土-地獄)ですので、真宗以外の浄土系の寺院では違和感なくその姿を見ることができます。

またそれは民間信仰の最たるものですし、各地域伝承のトップバターといえる存在ですね。

 

特に地蔵哀悼の意は「亡き子への思いが昇華したもの」とも言えますので、あの「前掛け」を付けたり、玩具(風車)を与えたいというカタチはその気持ちが具象化して表れたということ。

「前掛け風車」推測はその説で収まります。

 

口伝伝承がなくなりつつある昨今、ある意味それを頭ごなしに不要である、とはいえないところがありました。

 

「お地蔵さん」と言えば道端に立っている小石仏を思いますが、私の地蔵のイメージはそれとは絶対的に異なるカタチもあります。

表記の通称「木之本地蔵院(浄信寺)」の巨大地蔵です。

前述した如く「時宗」のお寺ですから御本尊は当然に阿弥陀如来と思いきや秘仏としてお目見えしない地蔵菩薩が本尊のようです。

お寺の名称は「浄信寺」でまさに「浄土往生を信ずる」からきて地獄に堕ちた場合でもその菩薩がすくい上げるというメッセージなのでしょう。

 

木之本についてはブログでは何度か記していますように近江でも特に私の好みのエリアです。行けばどうしても「さぁ越前へ」の気持ちを抑えるのが大変となる場所です。

 

木之本地蔵院は民間信仰だけでなく、平安・鎌倉期より皇室から武将までこの湖北の寺に目をかけていたという形跡が残っているようです。

 

賤ケ岳合戦時には秀吉に本陣とされて、焼失の憂き目にあっています。寺や神社は陣場にされて挙句、敗走の際は勿論、勝ち戦でも戦略上やたらと火をかけられますね。

たまったものじゃあありません。

信長の怒りを買った百済寺や金剛輪寺とは別のカタチでした。

場所は小谷城の先、賤ケ岳の手前という立地、あとちょこっと進めば日本海や越前方面となります(場所はこちら)。

 

こちら北国街道木之本宿街道筋には蓮如さんの明楽寺、その向かいには山内一豊があの名馬を買い付けたといわれる平四郎馬宿があります。

門前が北陸方面に向かう「辻」となり「札の辻」の名が残ります③画像。⑥は地蔵の足元で無数のカエルの置物の図。⑦の水屋には巨大なカエル。

鐘楼前には元文二年?の銘のある宝篋印塔が・・・⑨⑩。元文四年(1739)に再び焼失しているといいます。

阿弥陀堂には勿論立ち姿の阿弥陀さんが2体「OK!!OK!!」とお待ちくださっていました。

 

ちなみにこの地蔵像の場合、スポンサーに東条英機の妻がいたため、例の金属徴収令から免れているといいます。

銅像は明治中期建立のものですから、時代的には当時は「無価値」判断されて溶鉱炉へむかうはずの代物でした。

拙寺の梵鐘は「天正」時代であっても「無価値」として溶鉱炉の中へ。

まぁそういった不公平のもと人々は一つの共同体として否応もなく戦争に仕向けられたのでした。

 

コメントをお書きください

コメント: 2
  • #1

    元文2年の木俣氏というと、 (金曜日, 23 12月 2016 07:07)

    新野左野介の娘からの聞書をまとめた話題の木俣守貞氏でしょうか。新野の新野氏の居館とか部下とか書いてあるとよいのですが、

    銅像は銅鏡を集めて作られたそうで、何だかなあ、な話ですね。

  • #2

    今井一光 (金曜日, 23 12月 2016 08:07)

    ありがとうございます。
    江戸期の宝篋印塔で石塔自体にはそう興味がわきませんでしたが
    私はあの「木俣氏」の彫り深のアピール度に近接しました。
    「新野」を匂わす文字は見受けられなかったと思いますが、仰る通り
    その系統は大いに考えられるどころか殆どアタリのような気がします。
    この寺の「有徳人」としてのステータスも感じました。
    踏み込んで調べてみればスグにてもつきあたりそう。