「功名が辻」の美談はちょっと眉唾

城持ちとなった秀吉に見込まれた山内一豊の出世話は長浜がスタートですが、所領(場所はこのあたり)は400石から。

 

 その400石のスケールは当時の物価や人件費等勘案するに諸説あって、一石が果たしていくらかということになります。一石=一両というのは江戸時代では「そのくらい」程度にわかっていますが戦国時代の貨幣価値となれば、もう少し価値がありそうな気がします。

 

 一両は3万~6万円、時代が早いことからひょっとして10万円として計算すれば今の1200万~2400万円に、そして上が4000万円ということになります。

 

 その「400石」の単純計算、推測ですが今の上場企業でいう重役クラスですね。もっとも当時の家中の人員の扶持や備品の確保は「当家負担」でしたので計算は簡単ではありません。
「家」の運営については「会社」が保証するものではありませんでした。

 

「人は城」の事情は当時においてもより強く指向され、人材確保については功名狙いの風潮にあって欠くことのできないポイントですので要員の確保と適格な人員の配置をケチるわけにはいきませんでした。

 

 よって身銭がそう残る訳でも無いということはわかりますが、いくら何でも後世伝えられた「貧乏な一豊に内助の功の妻千代」の話には少々合点がいきませんね。

 

 小和田先生も仰っていましたが、それは「司馬遼太郎の功名が辻」(昭和38年)のイメージで原作当初の時代からは既に認識が変わっているとのこと。

現在においてやはり司馬遼太郎時代の原作を元にすると名作としてあったとしても時代の変遷と研究とともに新解釈が出現し、これまでの考えが場合によっては大きく変わってしまうことがあるそうです(これも既出)。

 

 特にこの時期の一豊はライバルから見ても出世頭で「貧乏侍」という時期があったとしても既にそれを脱していただろう時期です。

 

 妻、千代に馬を買う金10両を工面してもらったという話も天正九年(1581)の安土馬揃えへ合わせたものでしょうし長浜の唐国に一豊が安堵された天正元年からは大分時間が経っています。

一豊が金欠であったとしてもそれは昔の話、もはや財力はあった時期でありましょう。

 

 よってあの美談はかなり陳腐化したお話ということで現在、あのストーリーをドラマで演じられることはもはや無くなったかと思います。

 

 画像は一豊が名馬を買い付けたといわれる木之本の馬宿「平四郎」(場所はこちら)。

掲げられた看板にはその通説である「美談」について語られていました。