冬の陣デビュー  大坂最大の収穫 木村重成と青柳

クリントン氏による「ガラスの天井」と呼ばれる障壁の破壊は今後未来へ持ち越しになりました。

女性大統領の就任の期待は儚い夢と潰えたわけですが、既成の発想を壊すということで是非に次の破壊者の名のりの登場を期待して止みません。

 

「ガラス」は自由平等の社会であったとしても偏見や何らかの差別によって個人のそれ以上のステップを阻む見えざる(というか皆周知であるためにガラスの表現)障害を言いますが、本当は今回十二分にその天井を打ち壊すという素地はありました。

すべてがタイミングに左右された感があります。残念でした。

 

昨日は司馬遼太郎の「若江堤の霧」ベースで記したのですが、「大坂城内1万の女人」の記述は「ちょっとほんとかよ」と思うところがありました。

ただしあの東京都の職員約16万人の内10%が都庁にいるとすれば、半分以上は女人として「大坂」のその数字はまんざら眉唾ではなさそうな気もしないではありません。

 

歴史的に「難攻不落」の看板を掲げた「秀吉の大坂城」でしたが、その城の落城については、「冬の陣の手打ち交渉と堀の埋め立て」についてどなたもがその決定的敗因として思うところですが、やはり動かぬその遠因は「淀」+「乳母」+「配下の女人」ですね。

 

特に「淀」に知恵をつけた乳母の大蔵卿の局の城内での権勢が甚だしく、男どもからすれば「つまらないこだわり」がまかり通っていたわけです。特に歴戦の武将からすれば「バカバカしくてやってられない」という気持ちににもなったかも知れません。

 

それにしても「女性のトップ」がささやかれるようになった昨今ではありますが400年も前にわが国では女性をトップとした組織があったのでした。

 

大坂城内で大手を振るう「大蔵卿局」とは大層な名ではありますが、元は浅井の小谷城で生まれた茶々の乳母。ずっとその娘に付いて回った田舎娘で、たまたま茶々が秀吉の側室に入ったこと、秀吉の死によって正室高台院が大坂を去ってから筆頭差配者となっただけの話です。

 

そもそも、「もっとうまいことできないのか!!」と思う「方広寺の梵鐘銘難くせ事件」もそうですが、その弁明に駿府への大坂方代表に指名されたのがその老婆でした。

この件も家康にうまいことやられて、片桐且元の大坂離脱を招きますね。

 

やはり日本には「女性にやらせるとまずはうまくいかない」という雰囲気はこの大坂城から発したと思わせます。

 

冬の陣を早々に終了させたのは大坂城本丸大筒直撃弾による淀近侍の女人たちの凄惨な死を淀殿らが直視したためといいますが、あまりにもあっさりでした。

やはり「女の判断」を推測しますね。泥臭い渋とさが無いのですね。

 

「冬」の和平交渉の際に淀殿が茶臼山(信繁終焉はこちら)の家康の陣に派遣したのも常高院(浅井三姉妹の初)、二位局(淀・秀頼の侍女)、饗場局(やはり近江小谷出身茶々の乳母)。

老婆たちがこぞって向かうこともちょっと考えられない「凄い」の一言でした。もっとも他に信頼できる者が不在だったという悲しさもあります。何もかも急ごしらえの躰だったわけですね。

 

それでも冬の陣では結構大坂方の勝ち戦?ともいえる勇壮さは各残っていますね。

の上記「冬」の和平交渉が済んで正式な調印役として向かって秀忠(小説では家康になっています)と誓詞を交わしたというのが木村重成だといわれます。

 

話としては老齢家康の方が面白いところですが、やはり隠居の身。

征夷大将軍は秀忠ですので秀忠の方が信憑性は高いでしょう。そこでの重成の立ち居振る舞いについて同座を唸らせたと小説にありました。

 

彼の容姿についての評価は「戦国一」であることは人口に膾炙していますが、この評価は富貴で品位高い女性社会に育てられた教養と品格、それでいて優秀な講師をあてがえられて育まれた武道と戦略に秀ていたという「一人の人間として」どうにも他にはないような一目置かれるイカしたところがあったというところでしょう。

 

さて、その彼が大坂城内で女人衆の注目の的であったことは見当がつきますが、彼の妻となった人は大坂城を淀殿とともに牛耳った大蔵卿局の姪(真野頼包の子)の「青柳」です。

両人は冬の陣直前に祝言をあげたようですが、その青柳の方も重成に劣らぬ器量よしであったというのが通説です。

 

この青柳についても小説には記述があります。

彼女の死には二説あって、

①夏の陣に重成出陣の際に自刃した

②城を出てゆかりをたよって近江馬淵(あるいはこちらまたはこちら)の地に落ち重成の男子を出産、髪をおろして重成の一周忌に後を追った

というものです。

司馬遼太郎小説では後者を採用していました。

 

生まれた子は当初馬淵姓を名乗っていたそうですが、木村姓に復姓しその後の近江八幡地区の木村姓の元、あるいは近江商人繁盛の基盤となったといいます。

なるほど調べれば近江にはやはり「木村」姓は多いですね。

密かに当地の「木村」は重成末裔を誇っているとも聞きます。

 

画像は木村重成像の奥にあった彼女の菩提を弔う碑。

そして大坂城にある夏の陣黒田屏風。