勝竜寺城 藤孝の城の大手道は大門(大手門)橋

おかげさまで昨日の法事において、発声不能という事態に陥ることはありませんでした。ただし、朝から「原因不明の絶不調」におそわれて完璧な集中力欠落状態。

 

昔から遊びに行くときには出社をドタキャンしたことはありましたが、骨折(肋骨と足の指)しても会社に行くくらい痛みへのコントロールには自信のある私です。

しかしながら例の尿道結石再発の予感があって笑って堪えるというレベルではありませんでした。現在それは小康状態になっていますが、近日中に榛原病院に行こうと思います。

 

そのせいなのか、本来のそそっかしさが出たのか法要のスタート場所を間違えてしまいました。本堂スタートと思いこんで待機していましたが「遅いな、どうしたのだろう」と思って先方様に連絡すれば、ご自宅参集の皆さんは逆に私の方を「遅いな・・・」と待っていたという単純ミスから始まってその他恥ずかしい失敗も重ね、言い訳無しの「ごめんなさい」の連続でした。

最近は何かしらしでかすというのが私の日常になってしまいました。

 

本日の法要後のお斉のこと。これは滅多に無いことなのですが、なんと施主の娘さんで20代前半の女性のお隣に私の席が用意されていました。普通若い人は坊さんの隣は敬遠するのですが、よくよく考えてみれば、彼女とは朝からちょくちょく目が合って微笑み返されていましたので「これはいいことあるかな?」などと間違ってもあり得ない妄想を排除しながら着座しました。

 

そういえば彼女は去年の油谷氏の拙寺講習会のDVDが観たいということでその母親にそれを渡していたことを思い出しました。きっとその手のトレーニングの話にでもなるかと思いきやスマホを取り出して、「この画像を・・・どこかで見覚えがあると思ったら・・・」と。

一瞬また何かやらかしている証拠写真でも突き付けられるのかと身の凍る思いでその画面に眼をやれば、懐かしい顔とのツーショットが。

それは春先に浜松インター前で載せたヒッチハイカーの少年でした。彼がツイッターで仲間たちにその画像をアップしていたということで彼は彼女の友人ということで収まりました。

世の中「超狭すぎ」というよりも、ネット上の私の知らなかった顔画像に法要のお斉でお目にかかるということが奇異なことでした。これも如来さんの仕込んだ御縁と思えば納得。

痛く感謝されていましたので悪くないお話しでした。

 

尚、彼女I氏は就職1年目、希望通り?プロサッカーチーム配下の中学生カテゴリーのトレーナーをしているそうです。

道理で油谷氏のコーチングビデオを所望したかわかりました。

 

さて、ずっと記してきた勝竜寺城のおさらい。

2つの河川が合流する▽地帯に河川を外堀に仕立てた「総構」を構築したのが勝竜寺城ですが、河川自体も城砦用として架け替えられているようですね。

地図で復習しますがまずこの地の独特な地名として「落合」という川の合流地点、川の東側が「城の里」という地名が残っています。細川藤孝の頃この橋(大門橋)を大手道として城側に「大手門」があったといいます。イザというときは木橋を落として籠城、京都方向への侵入を阻止するための「城塁」であったことが想像できます。

 

南北朝期、足利尊氏が細川頼春・師氏兄弟に京都防衛の前線基地を作らせたといいますが、河川の移動、橋梁土木を受け持ったのが弟の細川師氏(淡路守護家)。

彼は「宝財院」―ほうさいいん―というようで現「小畑川」(「小畑川通り」とあります・・・)の名称はかつては「ほうさい川」と呼ばれていたといいます。

 

城内の光秀の逃亡したといわれる門、虎口手前には墓石群が。

近江で見られる白色の花崗岩質を思わせます。