真言密教系のアイテム三鈷杵と三鈷の松 撰要寺

他流の件、知らないことばかりで大変おこがましいことですが、少々記させていただきます。

そもそも日本仏教の大雑把なその流れと言えば平安京に興った「真言と天台」以前の奈良平城京周辺にあった南都六宗(なんとろくしゅう)にあると考えるのが一般的です。

この奈良仏教というものは現在のように「仏法」を説き、その無常観や人の心に触れて活動布教しようといういうものではありませんでした。行基のように民間に下りて活動した僧侶の例はありましたがそれは「教団」というようなくくりではなくあくまでも個々のレベルでした。

 

要は「鎮護国家」ポリシーの元「国家」というものをいかに安静に維持するかという国の特務研究機関としての学派という意味合いが強いものがありました。

学派といっても当時の仏教の方向は国の安泰であり(そもそもの仏教の在り方が今とまったく違う)そのためにいかに政(まつりごと)を執るかの指針を決定するものであって特に「占いと呪術」に長ける事がその「宗」の主眼となっていたような感覚でしょう。

よって各派は今のように「仏教宗派」の差異のようなものは感じることが無かったような気がします。ランクの上下は当然にありましょうが坊さんといえばすべて「国家公務員」という時代です。

 

それらを集約して昇華していったのが平安二宗(真言と天台)です。奈良で「上級公務員化」して力をつけて偉くなった坊さんが政に口出しするようになったことが平城京を離れる要因になったともいわれています。

あのロシアのお話も有名ですが、坊さん(宗教)が国政にしゃしゃり出るとロクなことが無いというのは古今東西散見できることでした。

 

さて、その二宗は新しく唐から持ち帰って理論武装した二人(空海と最澄)によってそれぞれの「山」(高野山と比叡山)を本拠とする教団として発展します。

ただし既成の奈良仏教が学問所としての(大学)意味合いを強めた程度で庶民的に向かうという変貌は鎌倉期を待つ他はありませんでした。

 

真言系は南都の宗派(密教ベース)を踏襲してくという方向をとりますが、天台にはその学問系統の枝葉に特に「浄土系」を学ぶ流れがあって、それらから源信―源空(法然)―親鸞が出たということは承知の事(天台教学以外からの浄土世界観の流れあり)。

他の「鎌倉仏教」と言われるくくりの創始者たちもまずは天台教学でのスタートを切っていることも。

 

現在、まずは同じ発祥の教えがいかにこうも差異が生じたかというのはこれはただひたすら「師匠の教えの解釈の違い」が要因ですね。そんな違いが多岐にその流れが下って行ったということです。

それが多々ある「自由」な発想と選択肢ということになります。まぁ現実は家のしがらみも依然存在し、まだまだこれから先、自由に教えを踏襲していこうという状況ではありませんが・・・

 

私の知る限りにおいて、その「師匠の教えの解釈の違い」が強く表れたのは法然さんの浄土宗です。

それだけその教えというものの懐が深く、鷹揚で自由な雰囲気があったのかも知れません。当流開祖親鸞聖人の浄土真宗などが最たるものですし、法然上人の教えを厳密に踏襲しようという流れにもかなりの枝分かれがあります。「厳しい・・・」という語を羅列する知事がいますがそれも個々人の解釈によってまったく違うものになりましょう。

 

「浄土宗」と言えば今は西山義「西山派」と鎮西義「鎮西派」の2つが主流のようですがそれらからもかなりの分裂分派があったよう。そのことは各所にそれぞれの流れの「本山」が存在することから計り知ることができます。

当真宗系の宗旨分流は浄土宗の法然没後に起こった師から弟子たちという関係ではなく親から兄と弟という血縁の関係ですのでその発生頻度は限定的だったのかも知れません。

 

私が着目して、「面白い」というところは、浄土系といえば天台教学からの系譜を連想する中、浄土宗の「西山」系にひょっとしていや間違いなく「真言(密教)」を思わせる名が出てくることです。

それが標記の「三鈷杵」(さんこしょう)や「三鈷」です。

本来のそれは「武器」のようなものだったようですが、それから密教系法具へと変わっていったものと聞きます。

その語あるいはそれを連想するものが「西山」の寺に存在することに気づきました。

 

さて先日の京都バスツアーにて南禅寺の三門に皆さんで上がったことをお伝えしましたが、そちらで解散し、公共機関にて集合場所の稲荷にやってきた檀家さんご夫婦がいらっしゃいました。先日ランチをお誘い戴いたご夫婦です。

あの時お二人は南禅寺のお隣の禅林寺の見返り阿弥陀の拝観に向かったとのこと。この寺は浄土宗西山禅林寺派の総本山で通称永観堂ですね。かつては真言系の寺院でもあります。

 

私が愚息を連れてそのお寺にお参りしたのは彼の入学試験の際だったと思いますが、その時、彼は突拍子もない事をやらかしたことを思い出しました。

御影堂から阿弥陀堂を巡る中庭の回廊から見た看板―願い事が叶う?―を見た彼はその階上のエレベーター前から大きく身を乗り出してその樹木の葉を抜いていました。

私が顔をしかめて静止する間もない一瞬の出来事でただ「何をやってやがる」と一喝するのみでしたが、監督不行き届きは反省いたします。

 

その松(大王松)は実は「ハッピー」をもたらす縁起物とのこと。私は縁起担ぎはしませんのでその事は全く初耳でしたが、彼は時期が時期というか、親の目前で無茶(二階のベランダから手すり片手で乗り出す・・・)をやって「どうだ」と言わんばかりの自己満足も含んでいたのでしょう、その「3本松葉」をゲットしていました。

その松を「三鈷の松」と言うのですね。どうやらその松には高野山発祥で空海にまつわる伝承があるようです。

 

ところがあのランチの帰りに私が無理やり「案内する」といってお連れした横須賀城の「うばがふところ」(姥が懐)の丘、横須賀城主大須賀康高が創建した撰要寺(またはこちら)の境内にその三鈷の松が2本立っていました。以前伺った際はまったくノーケアでした。

勿論その寺の名の通り(法然の著「選択本願念仏集」と源信の「往生要集」より)浄土宗であることは確かですが、元はこの寺の別の称、「遠州高野山」とも呼ばれたとのことから、真言系のそれを推測したわけです。

「三鈷杵」は法具といえど当山にはありませんので各自ググっていただければ・・・仏具屋さんでも目にしますので。