御先祖熊谷直実  三河宇利城主  熊谷備中守実長

 

昨日の「東海百城」選出の件、実は「片手」だけでそのベストを選出することは難しいことでした(昨日のブログ)。

単純に私の好きな城という感覚でピックアップしましたが、まだまだ並べたい城は数多。

僭越ながら①高天神②岩村城苗木城④諏訪原城⑤宇利城を並べましたがそれらと同等に各「良さ」を考えれば、アレもコレもと思い浮かんできます。

 

地元の⑥古滝境城、中遠で⑦馬伏塚城、西遠では⑧三岳城千頭峯城、駿河⑩興国寺城・・・美濃は⑪菩提山城 などもイイですね。あげていたらキリがありません。

 

さて、昨日そのベスト5に入れた「宇利城」。

これは残存遺構など城址保存の状況が良く歴史上名門部門の雄が交わったという点も面白味があります。「この人の名は・・・」と思わせる名が出てきますね。

平安から鎌倉期に名を馳せて、当流御開祖とも交流がある法然門下の熊谷次郎直実の一門です。その六代を経たのが宇利城主の熊谷備中守実長で、当時は今川配下でした。

東三河の他の領主たちがこぞって今川から松平になびいていく中、熊谷実長は今川を偏に頼りました。

 

タラレバを記せば駿府から離れた当地にあって、あの時、頑なにならず、周囲同様松平に付いていれば当家の歴史は変わっていたでしょう。

藤枝の熊谷山蓮生寺の熊谷さんのほかに遠州に熊谷姓が広がったかもしれません。

 

まあ、当寺熊谷実長にも松平に抗する事由が存在していたことでしょうが詳細はわかりません。城兵壊滅と言われる中、彼は一族引き連れて本丸背後北側に連なる山から脱出したとも、城内で討ち取られたとも伝わっています。

 

当初城攻めに手を焼いた松平清康軍が攻め口を切り開くことができたのは調略による内通(城内放火)といいますので、それさえ防げていたならば、松平勢力3000は逆に退散させられたかも知れません。 

城の西側に搦手はあったようですが、南向きの城の東・西・南は沼や深田に囲まれて攻め方も殆ど狭い1本の大手道からが主。

そこを一列に上ってくる少人数とならざるを得ない敵方は螺旋状に配置された連郭式の各曲輪から、石や丸太に矢を撃ちかけられて、膠着状態に陥っていたことと思います。

 

本丸は東西40m南北36mのほぼ正方形で西側の堀の掻き揚げた土で削平されたといいます。

西側に降りると石積みが分かります。搦手に繋がる本丸を守る施設だったのでしょう。

 

その本丸南の崖下にある井戸は雨水等の溜め井戸とのことですが、昨日ブログで記した「夢」とは落城時にその井戸(最後の画像3枚)に身を投げたといわれる姫様が金の茶釜を抱いていたというものです。

その茶釜は「まだ発見にいたっていない」と言われていますが何分486年前のお話で、あの山中のこともあり、その手の噂話があったとすれば、誰でも掘り出しにかかって、お宝をゲットしたくもなるでしょう。どこかの時代に誰かが掘り出しているかも知れませんし、ただの噂かも知れません。

こういった噂を流すその大本が実は金の茶釜を懐に入れているのかも知れません。

姫御殿なる曲輪の存在はこの城の支城といわれる南側の比丘尼城との関連性も想像できます。果たして姫たちの行方は・・・?。

 

今年の諏訪原城の現説の際のブログでも記しましたように、井戸の発掘調査は極めて危険が伴うため、学術的考察は後回しというか、あまりされないようです。

新城市がこの発掘調査をもし行えば、出るにしろ出ないにしろ一つの話題になるでしょうね。

万が一噂の通り、茶釜が出たとすればスゴイことになりましょう。そういった夢もありますが大切にしたい城址です。